“レフティーモンスター”小倉隆史の軌跡 選手権で煌めき、あのケガで終わる…
できれば決着をつけたかった帝京との決勝
四日市中央工を初優勝に導いたエース小倉隆史。決勝の大舞台で勝負強さを発揮し、その名を全国にとどろかせた 【写真:山田真市/アフロ】
帝京は2年生コンビ、FW松波正信(元ガンバ大阪など)とMF阿部敏之(元浦和レッズなど)が引っ張り、松波が2得点。一方の四中工は小倉隆史(元名古屋グランパスなど)、中田一三(元横浜フリューゲルスなど)、中西永輔(元ジェフユナイテッド市原など)の「三羽ガラス」が中核を担い、なかでもひときわ華のあるプレーで観客を魅了したのが17番をつけたエースの小倉だった。
2トップの一角でありながら、前線を自由に動き周り、大事な場面にすっと顔を出す。ぐいぐいとドリブルで縦にボールを運ぶ推進力と左足のパンチ力は、当時からの“売り”だった。
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「延長が終わったときは、僕はてっきり再延長があると思っていた。だから、終わって握手を求められたときは『ウソだろ』『両校優勝? なんだそれ!』って感じで仏頂面だったんです。正直、あの年の帝京には何回かやれば絶対に勝ち越せる自信はあったし、試合の流れもちょうど僕らの方に来ていましたから。仮にPK戦になっても、PKが得意なGK水原(大樹、元名古屋など)がいましたし、それまでPK戦では負けたことがなかった。できれば決着をつけたかったですね」
それが、小倉にとって両校優勝という結果の素直な感想である。四中工は3回戦の中京戦も、準決勝の国見戦もPKで競り勝ってきていた。それだけにPK戦には自信があったのだろう。
それにしても、28年の月日が経ったとはいえ、小倉の頭の中には当時の鮮明な記憶が残っている。
「相手が(東京代表の)帝京だったこともあり、スタンドは立ち見の人も多くて、階段が見えないほど埋まっていた。そんな状況で、僕らは浮足立っていたんだと思います。申し訳ないですが、当時は天皇杯決勝よりも高校サッカー決勝の方がお客さんが入る時代。
もちろん勝てる自信があったとはいえ、あのときの帝京は鹿実や市船にも勝つなどミラクルを起こしていたというか、パスを出す阿部がいて、点を取る松波がいて、勢いに乗っていた。僕自身は、2回戦の山形中央戦で腰を強打して、痛みで座薬を入れながら試合をしていたので、コンディションは万全というわけではなかった。
ただ、帝京の2点目は僕が阿部にボールを取られたところから松波に決められていたので、そのまま負ければ自分の責任になる、との思いがありました。だから、同点ゴールはもう意地です。僕はヘディングで突っ込むタイプのFWじゃなかったですが、あのときは一三(中田)とのアイコンタクトでFKに対してニアに飛び込んだら、そこにぴったりボールが来たんです」
単独優勝とはならなかった。だが、優勝できたことは「いい思い出」としみじみ話す。
「いまになっても当時のことを覚えていてくれる人が多いのはうれしいことですし、やっぱり高校生がひたむきにサッカーをしている姿が感動を呼ぶんですかね。準々決勝の武南戦も、会場は大宮サッカー場でしたが相手の地元だったこともありスタジアムにはあふれるくらい人が来ていました。武南も上野(良治、元横浜F・マリノスなど)がいて、一発があるチームでした。ただ、僕らは先制して追いつかれながらも、その直後に相手が喜んでいる隙を突いて勝ち越すことができました(笑)。
優勝するときって流れとか雰囲気とかがやっぱりある。もちろん、あのときは僕ら三羽ガラスのほかにも1コ下に水原がいて、試合に出ていたメンバーの5、6人はのちにJリーガーになっていたので、いいメンバーがそろっていたんですけどね」
ベンゲル、ピクシーとともに獲った天皇杯
ベンゲル監督に率いられた名古屋は天皇杯で快進撃。小倉はストイコビッチとともに攻撃の中心を担った 【写真は共同】
95年にはアーセン・ベンゲル監督のもと、ピクシーことドラガン・ストイコビッチとの絶妙なコンビネーションを見せ、天皇杯優勝(第75回大会)に貢献。5-1と鹿島アントラーズに大勝した準決勝、3-0と快勝したサンフレッチェ広島との決勝では、いずれも2ゴールと気を吐いたのが小倉だった。
「ベンゲルにはめっちゃ怒られたし、めっちゃ褒められた(苦笑)。ピクシーとはキックの質は全然違いましたが、似たような感覚でプレーできてすごくやりやすかった。僕が右に張って、ピクシーが左に張ってという変な2トップでしたけど、ピクシーからのサイドチェンジが足元にぴたりと来たり、その間を中盤の平野(孝)や岡山(哲也)が飛び込む形でも、よく点が取れた。2トップが前に張り続ける形じゃなく自由に動けるのも好きでした。まあ、その分ピクシーの要求は高くて『パス出せ!』って言われたところに出せないとキレられましたけどね(苦笑)」