“レフティーモンスター”小倉隆史の軌跡 選手権で煌めき、あのケガで終わる…
「あのケガで“小倉隆史は終わった”」
小倉を襲ったじん帯断裂の悲劇。あのケガなければ……。自身でも「終わってしまった」と振り返る 【栗原正夫】
もし小倉がケガをしていなかったら、どんな選手になっていたのか。そんなことを想像したサッカーファンは少なくなかったはずだ。
「僕だって(どんな選手になったのか)見てみたかったですよ! でも、してしまったものは仕方がない。いまだに現役のカズさん(三浦知良)を見ても、何がスゴいって大きなケガがなかったですよね。やっぱりケガはダメなんです。
復帰してからも(名古屋のあと市原、東京V、札幌、甲府と渡り歩き)32歳まで現役を続けましたが、あの時点で“小倉隆史”は終わってしまった。僕が磨いていた斜め45度からのシュートもズドーンッといかなくなりましたから。最初の手術が失敗で、どうにもならず……。まだ軸足じゃなければよかったのかもしれないけど、(強くボールを蹴る際に)踏ん張ると痛くて……。最後の1、2年は朝起きてひざの状態を確かめるのが日課になっていました」
フランスで思い出す代表唯一のゴールとW杯
日本代表での唯一のゴールはフランス戦での一撃。振り向きざまに左足で強烈なシュートを突き刺した 【写真は共同】
「結局1点だけなので、あそこで取っておいて良かった。あのときの日本とフランスは、大人と子どもくらいの差があった。当時のメンバーにはカントナ、パパン、ジノラがいて、僕のマークについていたのはデサイーとデシャンですから(笑)。僕はジュニアの頃は代表とは縁がなくて、それがひとつのコンプレックスでもありました。だから、アトランタ(五輪)の予選もそうでしたが、ファルカン監督に呼んでもらって日の丸をつけられたことはすごく誇らしかったですね」
四中工のチームメートだった中西やアトランタ五輪予選をともに戦った2コ下の城らが出ていた98年フランス・ワールドカップ(W杯)は、リハビリ先だったオランダからTGV(高速列車)で観戦に足を運んだとも振り返る。
「日本戦は生で見てないですが、アルゼンチン対オランダの試合でベルカンプのスーパーゴールを見ましたし、イタリア対フランスでジダンも見た。どういう気持ちで見たのか? 見たくないとかそういう気持ちはなかったですが、永輔(中西)も城も出ていたし、ジダンは僕の1コ上。『俺もあっちに行きたい! ここで何してんだろ!』って複雑な気持ちではありましたね(苦笑)」
05年に小倉が現役を退いて、早14年。その後はJリーグの情報番組のキャスターとしても人気を博し、16年には古巣・名古屋のGM兼監督という要職に就いたこともあった。
近年メディアでその姿を見る機会は減った。だが、きっと近い将来、サッカーファンはまた違った形で小倉隆史という名前を目にすることになるだろう。小倉はいま三重県の伊勢市に住まいを移し、将来のJリーグ入りを目指すFC.ISE-SHIMAで理事長兼アシスタントコーチとしてクラブの運営に携わっている。(敬称略)
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1973年、三重県鈴鹿市出身。四日市中央工高3年時、冬の高校サッカー選手権で帝京高と両校優勝を果たし、92年に名古屋グランパス入り。93年にオランダ2部エクセルシオールへレンタル移籍し、チーム得点王に。94年には名古屋に復帰し、同年、日本代表に初選出される。アトランタ五輪1次予選ではチームの主軸として活躍も、最終予選直前に右足後十字じん帯を断裂する大ケガを負ってしまう。その後、復帰を果たし、ジェフ市原、東京ヴェルディ、札幌、甲府と渡り歩き、05年に引退。引退後は解説業などを経て、16年に古巣・名古屋のGM兼監督に就任し、18年12月よりFC.ISE-SHIMA理事長兼アシスタントコーチ。J1、J2で通算241試合出場、52得点。国際Aマッチ5試合1得点。