連載:高校野球の「球数制限」を考える

過去を悔いる慶應高・上田前監督の考え 指導者の道筋を作るため、球数制限は必要

大島和人
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さまざまな活動を通して現在の野球界の問題点を発信している上田氏。心の中には「数々のピッチャーを潰してしまった」という後悔の念がある 【撮影:スリーライト】

 上田誠氏は慶應義塾高の監督を務め、高校球界に新風を吹き込んできた指導者だ。いわゆる体育会系とは一線を画した指導を行いつつ、春夏の甲子園大会に出場した実績を持ち、後にプロへ進む選手の育成も手掛けた。今回のインタビューではその名伯楽が過去の自分への反省も交えつつ、投球制限と、スポーツ障害の予防に向けた球界のあり方を率直に述べている。

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甲子園を目の前に「やめるか?」とは言えない

05年夏の慶應高は、エース・中林が5連投の末、桐光学園に敗戦。上田氏の頭の中に複数投手の育成はなかったという(写真は05年春の選抜大会) 【写真は共同】

――投球障害の予防について、高校野球界の現状をどうご覧になっていますか?

 まず甲子園大会はあまりにも多くの大人を巻き込んだ、周囲の期待が重いものになっています。僕も監督として多くの投手を潰してきました。準々決勝くらいで「肘が痛いんです」と選手が言ってきたとき、痛み止めの注射をして投げさせたこともたくさんあります。要するに神経を麻痺させて、痛みがあまり出ないようにして投げさせるんです。

――上田さんが監督を務めていた慶應は、高校球界の中でも珍しく自由なチームカラーで、理不尽や強制もないはずですが、そういう例はあったんですね。

 極力リベラルにやっていたつもりだし、選手ファーストで考えてきたつもりです。それでも「四十何年ぶりの甲子園」となって、投手がちょっと痛いですと言ったときに「じゃあ明日はやめるか」とはならなかった。

――2005年夏の神奈川県大会で、慶應は決勝まで進出しました。当時のエースは中林伸陽投手(現JFE東日本)です。43年ぶりの夏の甲子園出場がかかった決勝戦は、彼が5連投して桐光学園に敗れました。

 それ以外にもたくさんあります。疲れさせないためにマッサージ、酸素カプセルと手を尽くして、エースに頑張ってもらおうと考えていました。そうしないと神奈川で横浜、東海大相模、桐光といった強豪には勝てないし、他に何枚も育てる感覚はなかったです。
 だから僕の経験として、大会運営側が規制をかけないと無理だろうなと思います。あのときの準決勝、決勝で「何球まで」と規制があれば、それに備えて何とかしようとしていたはずです。
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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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