コパ・アメリカ2019連載

ベルギーでプレーの幅を広げた植田直通「代表に必ず呼ばれると信じていた」

飯尾篤史

ベルギーリーグで揉まれ、たくましさが増した植田。「成長した姿を見せたい」と意気込む 【佐野美樹】

 2018年ワールドカップ(W杯)・ロシア大会のメンバーに選ばれながら、出場機会を得られなかった。悔しい想いを胸に、帰国後すぐにベルギーへ旅立つと、異国の地で強くて速い外国人選手たちと激しいバトルを繰り広げ、確かな成長を遂げてきた。そして、ようやくめぐってきた日本代表復帰のチャンス。南米の猛者がそろうコパ・アメリカを前に、植田直通は「やったるか」と気合十分だ。

※リンク先は外部サイトの場合があります

代表でプレーする冨安を応援していた

――18年9月以来となる日本代表復帰を果たしました。選ばれたときの率直な感想は?

 やったるか、という感じでしたね。久々でしたから。アンダーの代表も含めて、代表からこんなに離れたことは人生初だったので。でも、チーム(セルクル・ブルージュ)でしっかりやっていければ、いつか絶対に呼ばれると思っていました。
 ただ、ここで結果を出さなければ、何の意味もない。呼ばれたからには、試合に出て日本代表の勝利に貢献したいし、自分のこれからのためにも、やってきていることをすべて出したい――そんな気持ちでいます。

――森保一監督の初陣となったコスタリカ戦に招集されたけれど、出場機会を得られませんでした。ベンチからどんな想いで観ていたんですか? なぜ、俺を使ってくれないんだという想い? それとも監督が決めたことだから、と割り切っていた?

 どちらかというと、後者ですね。僕は何事に対しても、ネガティブに考えることがないんです。何が起きても、どうにかなるだろうって。だから今は、すごく気楽に生活できています。
 もちろん、悔しさはあります。でも、やるべきことを続けていれば、必ず呼ばれるだろうと。使ってもらえる日が来るだろうと。その自信はあるし、結果、最後に勝てばいいと考えていて。今は譲っても、最後は絶対に譲らないぞって。その気持ちだけは絶対に忘れないように、これからもやっていきたいですね。

――最後に、というのは?

 代表で言えば、W杯です。そこに出るのが一番だと思っています。

――ロシア大会で試合に出られず、味わった悔しさは忘れていない?

 もちろんです。ベルギーへの移籍も、W杯で悔しい想いをして、絶対にあの舞台に立ちたい、という想いがあったからこその決断だったので。次のW杯には自分が出場して、あのとき破れなかった(ベスト16の)壁を破り、次のステージに行きたいという強い想いがあります。

――今年1月のアジアカップなど、代表に選ばれていない間も、日本代表の試合は観ていましたか?

 観られる時間帯であれば、観ていました。やっぱり、やりたいな、と思いますよね。自分もこのピッチに立って、やりたいなって。決勝で負けたとき、僕自身もすごく悔しかったし、仲間たちがプレーしているなかで、チームの力になれない自分に対しても悔しさがあった。そのためにも、もっと成長しなければな、とすごく思いました。

――そのアジアカップのピッチに、同じベルギーリーグでプレーし、年下の冨安健洋選手が立っていました。この後輩について、どうご覧になっていますか?

 すごく良い選手だと思うし、僕自身も彼から学ぶものがたくさんあると思います。それに、同じベルギーリーグで戦っている仲間として、代表での彼をすごく応援している自分もいました。
 今回こうして一緒に代表メンバーに選ばれましたけど、これまで年齢的に自分より年下の選手とポジションを争うことがなかったので、自分もそういう年齢になったんだなって。もっとやらなきゃな、と思うようになりました。

――かつて11年U-17W杯をともに戦った“94ジャパン”のメンバーも中心選手になり始めています。

 本当にうれしいですね。自分が呼ばれる、呼ばれないに関係なく、あのときのメンバーに対して、僕は思い入れが強いというか。あのときのメンバーが活躍してくれると、僕のモチベーションになるんです。
 今、A代表で(南野)拓実や(中島)翔哉がすごく活躍していて、どんどん上に行こうとしている。僕は負けたくないし、僕だけじゃなく、あのときのメンバー全員が「負けられない」と思っているはずです。僕らの世代が主力になっていかないと、日本代表は強くならないと思うので、僕も、もっと頑張って代表に入り続けたいと思います。

フランス語と英語の両方を勉強している

日本代表に招集されたのは昨年18年9月以来。出場すれば、18年6月のパラグアイ戦以来となる 【Getty Images】

――ベルギーでの挑戦についても聞かせてください。欧州移籍1年目にして28試合に出場し、22試合で先発しました。まずまずの数字だと思いますが、ご自身はどう感じていますか?

 いや、全試合に出ることが目標なので、満足はしてないですね。チームとしても、なかなか上に行けずに苦しんだので、反省の多いシーズンだったと思います。

――上に行けず、という点で言えば、これまで所属した鹿島アントラーズでは、負けが込む、押し込まれ続ける、ということは、ほとんどありませんでした。初めての経験をして、DFとして感じること、学ぶことも多かったのでは?

 おっしゃるとおりですね。鹿島では90分間押し込まれ、必死に守り続けるということがなかったので、最初はかなり戸惑いました。でも、これがこのチームの戦い方なんだと割り切って、やってきました。
 例えば、W杯で勝ち上がれば、日本がずっと押し込まれる状況になるかもしれない。そう考えると、すごくタメになるシーズンだったと思いますね。

――日本人選手の海外移籍を振り返ると、言葉の問題が大きな壁だったように感じます。植田選手は語学に関しては?

 うちのチームはフランス語がメインなので、フランス語の勉強がマストなんです。ただ、オランダ語圏の選手とかは英語も話すので、彼らとは英語でコミュニケーションを取っていました。

――ということは、英語とフランス語の両方を勉強していたんですか?

 そうですね。大変ですけど、そのふたつを並行して勉強していました。

――初めての海外生活ですから、ピッチ内外で戸惑うことがあったと思います。

 それが、あまりないですよね。さっきも言いましたけど、ネガティブに捉えることがないので。困難なこともあったかもしれないですけど、日本とは違うんだ、国が違えば、いろんなことが違うのも当然だ、という考えでベルギーに行ったので。だから、衝撃を受けるようなことはなかったですね。

――植田選手は若い頃から海外志向が強かったから、鹿島にいるときから、柔軟な考え方が身に付いていたのかもしれませんね。

 それは、そうかもしれないですね。鹿島には海外でのプレー経験のある先輩が多かったし、代表に行ったときも、いろんな先輩から話を聞く機会があったので。だから、言葉の大切さや、自分から輪に飛び込んでいくことの大切さをすでに学べていた。それで初めて海外でも、戸惑わなかったのかもしれないです。

1/2ページ

著者プロフィール

東京都生まれ。明治大学を卒業後、編集プロダクションを経て、日本スポーツ企画出版社に入社し、「週刊サッカーダイジェスト」編集部に配属。2012年からフリーランスに転身し、国内外のサッカーシーンを取材する。著書に『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』(ソル・メディア)、『残心 Jリーガー中村憲剛の挑戦と挫折の1700日』(講談社)、構成として岡崎慎司『未到 奇跡の一年』(KKベストセラーズ)などがある。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント