秋元陽太は言う。「母は自分以上に僕がサッカー選手になることを疑わなかった」

原田大輔
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いら立ちをぶつけた中学2年のとき

湘南ベルマーレでは年長選手としてけん引する秋元陽太。反抗期には母親と衝突した 【佐野美樹】

 湘南ベルマーレの守護神としてプレーするGK秋元陽太は、母である規子さんへの感謝をこう口にする。

「子どものころから栄養に関してもすごく気を遣ってくれて、いつも僕に食べさせる料理のことを考えてくれていた。両親は、僕が幼いときに離婚していて、祖父の家で暮らしていたんですけど、平日はいつもサッカーがあったし、週末になると知り合いの家族と一緒に食事をしていたので、1人でいることは、まずなかった。だから、さみしいって感じたことは一度もなかったんですよね」
 規子さんに聞けば、「いつも帰ってくると、『肉!』って言ってね(笑)。私は野菜も食べさせようと思って出すんですけど、すぐに『肉だよ! 肉!』って言うんですよ」と、当時を思い出しながら微笑んだ。

 中学生になった秋元は、憧れだった横浜F・マリノスのジュニアユースに加入する。ところが、県選抜に選ばれることもなければ、ジュニアユースの試合にも出られない日々が続いた。おまけにGKにとっては死活問題とも言える身長も伸び悩んだ。

「当時、マリノスのジュニアユースは3チームあったんですね。僕が通っていた菅田のチームは、僕の代でなくなってしまったんですけど、周りが県選抜に選ばれる中、僕だけが入れなくて。その当時、ボクシングが盛んだったこともあって、『サッカーをやめてボクシングをやりたい』って言ったんです。実際、ボクシングジムの見学にも行きましたし、グローブも買いました(笑)。もう、まさに思春期というか、反抗期ですよね。何なんですかね、あの時期って(笑)。

 ちょうど、そのくらいの年齢になると、一緒にサッカーをやっていた友達にも、やめるヤツが出てきたりして。ちょっと学校でも問題を起こしてしまったり、いら立って家の壁に穴を開けることなんて、しょっちゅう……もう、絵に描いたような反抗期。典型的な中学生でしたね」

 大好きなサッカーがうまくいかない、いら立ちを抱えていた。どう消化すればいいかも分かれなければ、どう発散していいかも分からなかった。その矢印はサッカー以外に向き、いら立ちは唯一ぶつけることを許された家族、特に母親へと向いた。
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著者プロフィール

原田大輔

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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