連載:イチロー取材記 駆け抜けた19年

イチローが伝えたかったこと 野球少年、そして挑戦するすべての人へ

丹羽政善

連載:最終回

イチローが最後まで貫いたのは「野球を愛すること」 【Getty Images】

 前回に引き続き、イチローの言葉を紹介したい。メジャーリーグで駆け抜けた19年、何を伝えたかったのか。示唆に富むコメントの数々には、イチローのメッセージが込められている。

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野球が楽しかったのは1994年まで

キーワード:1994年の210安打

 1994年に放った年間210安打に関連する話も少なくない。

 2004年10月1日(現地時間、日本時間2日)、シーズン最多安打を更新した夜、故・仰木彬監督も会見に出席する中で、こう言っている。

「(1994年に)日本で残した数字210安打のことをよく思い出すんですけど、1994年は怖さも全く知らずに、自分の力よりも大きなものが働いたシーズンだったんですね。今回(2004年)はいろんな怖さを知ってそれを乗り越えて、自分の技術を確立して残した数字ですから、僕にとっては重みが全く違うものです」

 後に、こんな話も。2009年の最終戦を終えて――。

「僕の中で94年の数字と感覚ですね、これがいろんなものを見るときに物差しになることが多いんですけど、今年もそれに近い感覚になる――というシーズンだったと思います。ただ94年と大きく違うことは、野球っていうものが楽しいだけの競技だけだった94年と、いろんな思い、怖さであったり、自分だけじゃない期待だったり、外的要素を含めて、いろんなことを知った15年後の僕が残した今年の数字。それは全く違うものではあるんですけど。まあ大きな物差しにはなるでしょうね」

 また、2008年7月に日米通算3000安打を打った夜、94年の影響をこう語った。
「僕が何かを自分のために生かすことというのは、人のことを見て学ぶことが多いんですよね。自分の中から何かを生み出していくことっていうのはあんまりない。人の行動を見ていると、すごく気になることがたくさん見えてきて、それを自分に生かすというやり方で、すごく嫌らしいやり方ですけど、そうやって、今の自分があるような気がするんですよ。

 そうやっていくと、今の自分ができた、みたいな感じなんですよね。その中から自分の信じているものなんかが生まれてきて、それを生かしていく。急に、94年、まあ、200本打って、210本打って、給料が10倍になったわけですよね。あのときから自分に対する責任、自分が負っている責任というものを考えるようになりましたね。まだね、給料が安いときっていうのは、そういうことを考えない。自分のことしか考えない。でも、自分の行動や発言によって大きな影響が出るということを、あの年に自分で知ってしまったわけですよね。それからというのは、要はこれを今人が見ていたら許さないだろうなという行動はなるべくしないようにはなっていきましたよね。人のことも見ながら、自分を作ってきた。

 アメリカに来てまた、想像してたものと違う世界があったわけです。そこにいいことも悪いことも。アメリカでは分かりやすい。特にはっきりと答えが出るので。それは僕にとってはすごく助けになりましたね。『あっ、ああやってやらなければいいんだ』ということがあまりにもたくさんあって。あのね、こうした方がいい、というのは難しいですよ。答えが出づらいんですよ。でも明らかに、『それはまずいよね』という中には、はっきりとした答えが、たくさんあるので」

 引退会見でも当時を振り返る場面があった。94年を境に、野球との向き合い方が変わったが、それを経験したからこそ、たどり着いた境地もあった。

「子どもの頃からプロ野球選手になることが夢で、それがかなって。最初の、どうですかね、最初の2年……18、19(歳)の頃は、1軍に行ったり来たり……行ったり来たりっておかしい。行ったり行かなかったり。行ったり来たりって、いつもいるみたいな感じだね。あれっ、どうやって言ったらいいんだ。1軍に行ったり、2軍に行ったり……そうか、それが正しいか。そういう状態でやってる野球は結構、楽しかったんですよ。

 94年、これが3年目ですね。仰木監督と出会って。レギュラーで初めて使っていただいたわけですけども。この年までですかね、楽しかったのは。後は何かね、その頃から急に、番付、上げられちゃって、一気に。もうずっとしんどかったです。

 やっぱり力以上の評価をされるというのは、とても苦しい日々ですよね。だからそこからは、純粋に楽しいなんてことは……もちろんやりがいがあって、達成感、満足感を味わうこと、たくさんありました。ただじゃあ、楽しいかっていうと、それとは違うんですよね。

 そういう時間を過ごしてきて、将来はまた楽しい野球がやりたいなというふうに……まあこれは皮肉なもので、プロ野球選手になりたいという夢がかなった後は、そうじゃない野球をまた夢見ている自分が、あるときから存在したんですね。

 でも、これは中途半端にプロ野球生活を過ごした人間には、恐らく待っていないもの。まあ趣味で野球をやる……例えば草野球ですよね。草野球に対して、やっぱりプロ野球で、それなりに苦しんだ人間でないと、草野球を楽しむことはできないのではないかと思うので。これからは、そんな野球をやってみたいなという思いですね。おかしなこと言ってます? 大丈夫?」

感情を殺すことはずっと続けてきた

キーワード:失敗から学ぶ

 さて、これまでは記録を達成した時の言葉が少なくないが、失敗からも貴重な言葉が生まれている。2011年、連続200安打が10年で途切れた。シーズンが終わってイチローはこんな話をした。

「結構、難しいんすよ、200本って。多分、皆さんが思うよりもちょっと難しいくらい。難しいのでやっぱ特別なんですよ。こうやってできないことがあると、200ってすげえなって、何人か打ってる人を見たら、やっぱりすげえなあって思うので、今までずっとやってきて、寂しさが来るかなあと思ったんですけど、そんな感じでもないんですよね。動揺する感じでもないんですよ。そういう日が来ることを想像するとこう、ひょっとしたらこうすごく動揺する自分が出てくるかなあと思ったんですけど、それはないんですよ。それは多分、難しいと感じてきて、ギリギリのところでやってきたという自負があるからでしょうね。余裕を持ってできたのは、実質3回ぐらいなので、10回のうち。毎年、よく言ってましたけど、今年で止まってもいい、でも、今年はやりたい。近づいてくると。そういう感覚でやっていたので、寂しいという感じでもないんですよね、実は」

 200安打をあきらめたわけではなかったが、それを公に口にすることはなかった。

「その可能性を生み出せる状態でありたいなと思いますね。言うと、またそれはうっとおしいんですよ。これ、リスク回避なんで。去年ぐらいそうなんですけど、先の未来、言わない方がいい。プラスがない。マイナスしか生みださない。今年だって、実際、一度も僕、200って言ってないんですけど、アメリカ人の記者がバンバン来たもんね。言ったら言ったで、自分勝手と言われるし、それ僕言いませんよもう、ってなるでしょ。それはリスク回避なので、そういうすべはね」

 結果として、ある時からずっと心がけてきたことがある。メジャー通算3000安打を打った日、何を変えずに守って来たのか? と聞かれて言った。

「感情を殺すことですね。このことは、ずっと続けてきたつもりです。今日、達成の瞬間はうれしかったんですけど、途中、ヒットをがむしゃらに打とうとすることが、いけないことなんじゃないかっていう、僕は混乱した時期があったんですよね。そのことを思うと、今日のこの瞬間は当たり前のことなんですけど、いい結果を出そうとすることが、みんなも当たり前のように受け入れてくれていることが、こんなことが特別に感じることはおかしいと思うんですけど、僕はそう思いました」

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著者プロフィール

1967年、愛知県生まれ。立教大学経済学部卒業。出版社に勤務の後、95年秋に渡米。インディアナ州立大学スポーツマネージメント学部卒業。シアトルに居を構え、MLB、NBAなど現地のスポーツを精力的に取材し、コラムや記事の配信を行う。3月24日、日本経済新聞出版社より、「イチロー・フィールド」(野球を超えた人生哲学)を上梓する。

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