連載:没後25年…アイルトン・セナの追憶

没後25年も色あせない記録の数々 世界を魅了したアイルトン・セナとは?

田口浩次

1993年、ブラジルの次にセナファンが多いとされた日本GPで勝利。この日本GPと続く最終戦のオーストラリアGPで連勝。それが最後の勝利となった 【写真:ロイター/アフロ】

 きょう5月1日より皇太子徳仁親王が新天皇にご即位され、新たな元号『令和』が始まった。日本では今後、5月1日は労働者の日である『メーデー』よりも『令和の日』として広く浸透していくことだろう。

 そして日本と同じく、5月1日が『メーデー』よりも有名な日として浸透している国がある。南米の大国ブラジルだ。しかし、ブラジルにとって5月1日は、日本の『令和』のように明るい記念日ではない。悲しい記念日である。なぜなら、世界に誇るブラジルの英雄を事故で失った日なのだ。その英雄の名前は「アイルトン・セナ・ダ・シルバ」。1988年、90年、91年にマクラーレン・ホンダでワールドチャンピオンを獲得した、F1ドライバーである。

 アイルトン・セナは、1960年3月21日ブラジル生まれ。初グランプリ出場は84年ブラジルGP。最後のグランプリは94年サンマリノGP。出場グランプリ数161戦(歴代29位タイ/1位はルーベンス・バリチェロで322戦)。ワールドチャンピオン獲得3度(歴代6位タイ/1位はミハエル・シューマッハーで7度)。優勝回数41勝(歴代5位/1位はミハエル・シューマッハーで91勝)。ポールポジション回数65回(歴代3位/1位はルイス・ハミルトンで84回)。ポール・トゥ・ウィン回数29回(歴代4位/1位はルイス・ハミルトンで47回)。亡くなって25年が過ぎたにも関わらず、いまだ色あせない記録を残している。

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琢磨やハミルトンが憧れた英雄

 当然、その走りに憧れを持ったドライバーは多い。日本では元F1ドライバーであり、2017年に日本人初の世界三大レース「インディ500」優勝を飾った佐藤琢磨がその筆頭だろう。父親に連れられて87年日本GPを鈴鹿サーキットで観た琢磨少年は当時10歳。そのとき、ファンの多くは日本人初のF1フル参戦ドライバーとなる中嶋悟を応援したが、琢磨少年はその同僚だったセナに目を奪われ、セナが琢磨少年のヒーローとなった。その姿を追い求めて、ついにはF1ドライバーにまで上り詰めたのだった。

 現ワールドチャンピオンのルイス・ハミルトンもセナに憧れたドライバーだ。ハミルトンはセナについて取材を受けてこう語っている。

「人は僕のドライビングスタイルがアグレッシブ過ぎると言う。でも、それは僕だけじゃないと思う。というのも、僕が子供だった頃、セナの走りを見て、これこそ僕が走りたい走り方だと思った。すぐに同じような走りをまねしようとカート場で走ったよ。僕のレースにおけるアプローチは、すべてあそこから始まっている。セナは本物のレーシングドライバーだと感じた。アラン・プロストとは陰と陽のように違う。プロストは年長者らしいクレバーな走りだった。でも、僕はセナこそが本物だと惹かれた。僕はセナが亡くなる前の年に、一度だけ会うことができた。セナはまるで磁石のように引きつける魅力を持つ人だった。それは、脆さと明るさが混在する、スーパーヒーローのように見られていても、じつは人間的に弱い部分があるところだった。

 誰だって勝者は好きだ。それは世界の常識かもしれない。そしてセナはF1界において、間違いなく過去最高のドライバーのひとりだ。でもセナはそれ以上の存在だと思う。F1におけるアイコンと呼べる存在であり、世界中に大きな影響を及ぼした。僕もセナに多大な影響を受けて成長した」

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