2011年の東日本大震災となでしこジャパン  佐々木前監督が語る「あの時考えたこと」

宇都宮徹壱

アルガルベカップからの帰国直後に

なでしこジャパンの前監督、佐々木則夫に当時の話を聞いた 【宇都宮徹壱】

「その日の午前に、アルガルベカップが行われたポルトガルから帰国しました。メンバーのうち、都内でスーツの採寸をしなければならない選手が3人。それから日テレ・ベレーザの選手は、日韓女子リーグチャンピオンシップがあったので、そのまま成田から飛び立っていきました。それ以外の選手はそれぞれの所属チームに戻っていきましたが、(東京電力女子サッカー部)マリーゼは九州で合宿中でしたので、鮫島彩は福島ではなくそっちのほうに移動しました。ですから成田で解散後、東北に向かった選手は誰もいませんでしたね」

 なでしこジャパンの前監督、佐々木則夫が語った「その日」とは、2011年3月11日である。ドイツで開催されるワールドカップ(W杯)を3カ月後に控え、なでしこはアルガルベカップで米国に1−2で敗れたものの、フィンランドとノルウェーとスウェーデンには勝利。手応えを感じながら日本に帰国していた。佐々木がかつてない激しい揺れを感じたのは、成田から埼玉の自宅に戻った直後のこと。時間は、14時46分18秒であった。

「家に着いたとたんにガタガタときました。その2年前に新築の家を建てたんですが、『これは壊れるかも』と思うくらいの激しい揺れでしたね。揺れが収まってから、自宅の近所を見て回りました。ブロック塀が崩れてけがをしている人はいないかとか、火災が発生している家はないかとか。幸い、わが家の近所ではそういったことはなくて、自宅に戻ってからテレビで東北地方が津波被害を受けていることを知りました。JFA(日本サッカー協会)ともすぐに連絡を取って、しばらくして選手やスタッフが安全であることが確認できました」

 未曾有の大災害となった、東日本大震災から今年で8年。そして同じ年の7月17日、女子W杯で日本は米国にPK戦の末に勝利し、初の世界チャンピオンに輝いている。この快挙は単に日本サッカー界だけにはとどまらず、破滅的な震災の記憶に打ちひしがれた国民を勇気づける、久々の明るい話題として熱狂的に迎えられた。今から8年前の2011年は、まさに「震災となでしこの年」と言ってよいだろう。

 一方で、冷静なファンからは「震災とサッカーは切り離して語られるべき」という指摘が当時からあった。確かに、一理あるとは思う。しかしながら、「あの頃のなでしこの実力なら、震災がなかったとしても世界一になれた」という意見については、どうだろうか。ここはやはり、当事者の言葉に謙虚に耳を傾けるべきであろう。現在、十文字学園女子大学の副学長を務める佐々木は、われわれの取材依頼に快く応じてくれた。

「女子サッカーで日本に元気を送りたい」

佐々木が「特に変化が感じられた」と語った丸山(18番)。W杯では準々決勝のドイツ戦で決勝ゴールを決めた 【写真:アフロ】

 JFAのメディアチャンネルをさかのぼると、震災から1週間後の3月18日に「なでしこジャパン 5月にアメリカ遠征実施」とのリリースが見つかる。まだ世の中が「サッカーどころではない」という状況の中、それでもW杯に向けた準備は粛々と進められていた。とはいえ、4月3日から開幕予定だったなでしこリーグは、同月24日の第4節まで延期。また、福島県のJヴィレッジを本拠地とするマリーゼは、原発事故の影響からリーグ戦参加を辞退していた(同クラブの鮫島はボストン・ブレーカーズに移籍)。

「米国遠征までは、各クラブを回って選手の状況を確認していました。関東のクラブは節電でナイター練習ができなかったので、平日はランニングを強化して週末の昼にゲーム形式の練習をするところが多かったですね。そんな中、特に変化が感じられたのが丸山桂里奈(当時、ジェフユナイテッド市原・千葉レディース)。もともとスピードはあったけれど、スタミナに難があったから、彼女には『今のままだとメンバーに残れないよ』と伝えていたんです。ところが練習試合を見たら、課題のスタミナ不足を克服してガンガン走れていたんですね」

 試合後、佐々木が丸山にそのことを指摘すると「私はサッカーでしか返せないから」という切実な答えが返ってきた。確かに、平日の走り込みの成果もあっただろう。だがそれ以上に、前所属のマリーゼの苦境を思えば、その言葉が意味するところを佐々木は痛いほどに理解できた。アルガルベを含めて、しばらく代表から遠ざかっていた丸山であったが、米国遠征では久々にチームに合流。そのまま最終メンバーにも名を連ね、W杯準々決勝のドイツ戦では、延長後半3分に劇的な決勝ゴールを挙げることになる。

 5月の遠征でのなでしこは、米国と2回対戦していずれも0−2の敗戦。しかし佐々木によれば、この時から選手たちの間で「W杯で優勝したい」という声が聞かれるようになったという。「女子サッカーで日本に元気を送りたい」というのが、一番の理由であった。彼女たちの思いに胸を熱くする指揮官であったが、この頃の女子サッカーに対する世の中の注目度は、今では考えられないくらい冷淡なものであった。

「たとえば『今度、米国遠征に行きます!』という時でも、記者会見がなかったんですよ。だからJFAハウスの記者ルームに行って、僕がリップサービスするしかない。『今回の目玉は、この選手なんですよ』とか、『○○新聞さん、もっと女子も取り上げてくださいよ』とか。愛媛で壮行試合をやって、それから名古屋経由でW杯に向かう時も、同行した記者は3、4人くらいでしたかね。団体のお客さんから『何のチームですか?』と聞かれて、なでしこジャパンですと答えたら『ああ、バレーボールね』と言われましたよ(苦笑)」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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