2017年 DAZN元年への道 <前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
「なぜ自国のJリーグは放送しないんだ?」
スカパーJSAT株式会社取締役の小牧が、Jリーグの放映権を獲得した06年当時のことを語ってくれた 【宇都宮徹壱】
「それまでWOWOWさんが持っていたセリエAを当社が獲得した時は、ちょうど中田英寿がペルージャに移籍して2年目のタイミングでした。幸い、たくさんのお客さまに加入していただいて『サッカーを見るんだったらスカパー!』というイメージが次第に定着する契機となりました。02年のワールドカップも放映権を取得しましたし、大会後も世界中のすべてのテレビ局やプラットフォームの中で、おそらく当社が最もサッカーのコンテンツが充実していたと思います」
かくして目の肥えた海外サッカーファンの間で、スカパー!の存在感は揺るぎないものとなっていく。そんな中、この状況に違和感をおぼえた男が現れる。05年に日本テレビから出向し、執行役員常務となった田中晃。田中は日テレ時代、プロ野球の巨人戦や高校サッカー、さらにはトヨタカップといったスポーツ中継を数多く手がけ、87年から始まった新春の箱根駅伝中継の初代ディレクターとしても知られる。田中の登場がなければ、スカパー!がJリーグとの放映権を獲得することはなかっただろう。それは、小牧のこの証言からも明らかだ。
「自国のスポーツを応援したり、育成したりする役割を担うのがテレビである。田中さんの考え方は、いかにも日テレ的でしたね。つまり巨人を通じてプロ野球界をリードし、読売クラブは日本サッカーのプロ化の嚆矢(こうし)となった。高校サッカーにしても箱根駅伝にしても、日テレがコンテンツ化したことで、あれだけ注目されて今に至っているわけです。それらに関わってきた田中さんからすれば、『これだけサッカーをやっているスカパー!が、なぜ自国のJリーグは放送しないんだ』と思ったのも当然だったと思います」
「ホームはスタジアムで、アウェーはスカパー!で」
「Jリーグ全クラブの担当者を前にして、田中さんはこう言ったんです。『皆さん、スカパー!はJリーグの入場者数が上がらない限り、会員数は増えません。スタジアムの入場者数の4割が会員さんになっていただければ黒字になるし、そうなればもっと放映権料もお支払いできるわけです。ですから、もっとわれわれに払わせてください』と。大演説ですよ(苦笑)。つまり入場者数を増やしながら、会員数も増やしていく。そのための施策をどんどん一緒にやっていきましょうと。当社が掲げていた『ホームはスタジアムで、アウェーはスカパー!で』というスローガンには、そういう意味が込められていました」
問題は、スカパー!にサッカー中継の制作ノウハウがなかったことだ。海外からの映像を、そのまま流すのとはわけが違う。しかも07年当時、J1が18チームでJ2が13チーム。すべての試合を自力で中継するためのマンパワーもなかった。そこで田中が採用したのが「箱根方式」。日テレが駅伝中継で系列局をフル活用したように、スポーツ中継の実績がある地方局や制作会社に各地のホームゲームを担当してもらい、共通のマニュアルを作って統一感をもたせたのである。これで全試合中継の体制は整ったが、実際は赤字の状態を他の収入で補填する状況が続いていたという。しかし、小牧はこう続ける。
「Jリーグ関連のセットに関しては、われわれが放映していた10年間、一度として前年の同じ月の件数を下回ったことがなかったんです。もちろん、シーズン開幕とともに会員が増えて、オフシーズンになると減るという山と谷は毎年ありました。それでも月ごとで見れば、前の年を下回ったことだけはありませんでした。これほどステディに伸びた商品というのは、他にはなかったですね」
かくして、07年から始まったスカパー!とJリーグとの二人三脚は、16年までの10シーズンにわたり続くことになる。視聴者であるファンやサポーターの多くは、両者の密な関係がその後もずっと続くと思っていたのではないか。そんな中、スカパー!の放映権が残り3年となった14年に、村井が第5代Jリーグチェアマンに就任する。歴代初となるサッカー界以外からのチェアマンの登場が、Jリーグ中継のあり方を根本から覆すことを、この時点で予期した者は誰もいなかったはずだ。
<後編につづく。文中敬称略>