2002年 W杯イヤーに始まったトライアウト シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

移籍へのネガティブなイメージの変化

「トライアウト1期生」の藤吉いわく、当時の「移籍」にはネガティブなイメージがあったという 【宇都宮徹壱】

「その日は熱があったんですよ、39度くらい。でも(12月のトライアウトは)その日しかなかったので、ふらふらになりながら会場の国立競技場に行きましたね。もちろん、しんどかったですよ。でも、それに参加しなかったら次がないから、死にそうになりながらプレーしたのを覚えていますね。僕としてはプロ(Jクラブ)でやりたいというのがあったんですけれど、オファーがあったのはJFLや地域リーグのクラブだけでしたね」

 藤吉信次にとってのトライアウトとは、最悪のコンディションの中での苦闘の記憶そのものであった。この時、32歳。読売ユースから読売クラブ(のちのV川崎)でプロとなり、96年に初めて移籍したのが京都パープルサンガ(当時)であった。そして前述したとおり、さらに移籍した仙台を02年いっぱいで契約満了。かくして「トライアウト1期生」となった藤吉であったが、当時のプレーヤーの移籍に対する意識は、今とはずいぶんと異なるものであったようだ。

「Jリーグが始まった頃って『移籍したら負け』みたいなイメージが、まだ根強く残っていましたね。クビになって初めて移籍を考えるので、『ダメになったから他を探すんでしょ?』みたいな感じで。少なくとも当時は、キャリアアップのための移籍という感覚はほとんどなくて、僕も自分から移籍したいと考えることはほとんどなかったです。トライアウトに関しても、プライドの壁みたいなのはありましたね。僕自身、サッカーは続けたかったけれど、アマチュアになってまでとは考えていませんでした」

 結局、この年のトライアウトではJクラブからの誘いはなく、03年に中国2部の成都五牛足球倶楽部(のちに解散)に移籍。04年には帰国し、読売時代の大先輩である与那城ジョージが監督を務める、九州リーグ所属のFC琉球でプレーすることになる。同クラブを2シーズンでJFLに引き上げることに貢献すると、07年にはニューウェーブ(現ギラヴァンツ)北九州に移籍し、再び九州リーグからJFLへの昇格に尽力する。「アマチュアになってまで」続けようとは思わなかった彼のキャリアは、結局39歳まで続くこととなった。トライアウトに参加したことで、移籍やキャリアに対する考え方も変わったと当人は語る。

「もし(トライアウト参加を)悩んでいる選手がいたら『絶対に参加したほうがいい』と言いますね。その時点でオファーがないんだったら、参加して損することはひとつもないし、選手としての価値が下がることもない。それに僕らの頃と違って、今は運営も整備されているし、視察に来ている人たちも、きちんと見てくれる。選手にとっても、そこでアピールすることで視野も広がっていくと思います。僕自身、今はトライアウトを見に行く立場になりましたけれど、選手には可能性がある限りチャレンジしてほしいですね」

Jクラブ以下がトライアウトに注目する理由

移籍を取り巻く環境が変化したことで、トライアウトの役割も変わりつつある 【宇都宮徹壱】

 トライアウトを主催した人、参加した人に続いて、最後は「見続けてきた人」に登場していただこう。株式会社ジェブエンターテイメントの代表取締役であり、自身も選手の代理人である田邊伸明は、第1回からトライアウトを「皆勤賞」で見続けてきた稀有(けう)な人物である。代理人という立場から、黎明期のトライアウトを田邊はどう捉えていたのだろう。

「始まったばかりの頃は、まだ弊社に契約満了となる選手がいなかったので、『どんな選手が出てくるのかな?』という興味本位の部分はありましたね。実際に見に行くと、『なぜこんな選手がトライアウトに参加しているんだろう?』と不思議に感じることもありました。クラブ側の事情で考えると、異なるカテゴリーをスカウティングできない状況が、わりと長く続いていたんですね。J1クラブはJ2の試合まで見ることができないし、その逆もそうです。ですからクラブにとって、トライアウトが『選手のやる気を確認する場』になっていた時代は、間違いなくありました」

 ところでここ数年、トライアウトの現場を取材していて、ある変化を感じるようになった。それはJクラブのスカウトよりも、むしろJFLや地域リーグ、さらにその下のカテゴリーの関係者の姿を多く見かけるようになったことだ。スタートから今年で17年。選手の移籍を取り巻く環境も変化し、トライアウトの役割もまた変わりつつあると田邊は指摘する。

「最近はスカウティングシステムも発達しましたし、インターネットによる動画配信である程度はリサーチできるようになりました。ですので『トライアウトの会場で選手を探す』という行為は、Jクラブに関して言えばほとんど無くなりつつあります。今ではJFLとか地域リーグとか、さらにその下のクラブ関係者が熱心に見に来るようになりました。契約満了の選手には、そうした状況をしっかり伝えた上で、トライアウトに参加してもらう必要があると思います」

 その上で田邊は「今後はJリーグ以下のクラブ向けに映像を配信するような工夫があってもいいのでは?」と提案している。そのほうがマッチングの可能性が広がるというわけだ。いずれにせよ、元Jリーガーの活躍の場が以前と比べて格段に広がったことは、ポジティブに考えて良いだろう。

 2002年に開催されたW杯は、スタジアムを始めとするさまざまなスポーツインフラが整備され、また新潟や大分といった開催地にJクラブが根付く契機にもなった。そして同じ年にひっそりと始まったトライアウトは、選手の移籍に対するイメージに劇的な変化をもたらし、広範囲にわたる人材の流動化を促進させた。2002年のサッカー界における、もうひとつの重要な出来事として、この事実は銘記されるべきであろう。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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