2002年 W杯イヤーに始まったトライアウト シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

「藤吉ーっ! 俺の静岡FCに来い!」

国立競技場で行われた02年の第1回トライアウトの様子 【(C)J.LEAGUE】

「トライアウトの一番の思い出ですか? あの当時、参加者がひとりひとりマイクでアピールする時間があったんですよ。スタンドにクラブ関係者や代理人の人たちがいるじゃないですか。その人たちに向けて、ひとりずつマイクでアピールするんですね。『僕はまだまだサッカーがやりたいんです! ぜひお願いしまーす!』みたいな感じで。それで僕もアピールしたら、納谷(宣雄)さんが『藤吉ーっ! 俺の静岡FCに来い!』って言ってくれたんですね。あれはすごくうれしかった(笑)。あの時は、本当に静岡FCに行っちゃおうかと思ったくらい、うれしかったですね」

 そう語るのは、東京ヴェルディのコーチングスタッフを務める藤吉信次である。ベガルタ仙台で契約満了となった2002年のオフ、この年に初めて行われたJリーグ合同トライアウトに参加。この時、藤吉に声を掛けたのが、三浦知良の実父としても知られる納谷宣雄であった。彼が兄の義郎と立ち上げた静岡FCは、当時は東海リーグ1部所属で、この8年後に藤枝MYFCに吸収合併されている。もっともこの時、藤吉に声を掛けたのは実は納谷ではなく、同クラブ理事長だった森下源基(元ヴェルディ川崎社長)という説もある。いずれにせよ、黎明期のトライアウトでは参加選手による「アピールタイム」があったことだけは間違いないようだ。

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第24回となる今回は、2002年(平成14年)をピックアップする。この年のJ1は、ファーストステージとセカンドステージをいずれもジュビロ磐田が制して、2ステージ制で初の完全優勝を果たしている。J2では大分トリニータが初優勝して、来季のJ1昇格を決めた。しかしこの年の最大のトピックスと言えば、ワールドカップ(W杯)日韓大会の開催。この空前のビッグイベントは、当然ながらJリーグにも少なからぬ影響を与え、J1はファーストステージ途中で約3カ月にわたる中断期間を余儀なくされている。

 さて、シーズン終了の「風物詩」となっている、Jリーグ合同トライアウト。JPFA(日本プロサッカー選手会)とJリーグが合同で運営する、自由契約選手を対象としたトライアウトがスタートしたのが、W杯日韓大会と同じ年であることを知る人は決して多くはない。W杯開催とトライアウト。前者が日本国民を熱狂させた歴史的ビッグイベントであったのに対して、後者はまさに知る人ぞ知る存在。この第1回トライアウトを主催した人、参加した人、そして以後も見続けてきた人。本稿では、それぞれの証言から、トライアウトの歴史的意義について考察していくことにしたい。

試行錯誤の連続だったトライアウトの歴史

現在、JPFA事務局長を務める高野は試行錯誤の連続だった当時を振り返る 【宇都宮徹壱】

 最初に話を聞いたのは、JPFA事務局長の高野純一である。高野は、サッカー専門誌の編集者、ジェフユナイテッド市原(当時)、大宮アルディージャのスタッフを経て、まさに第1回トライアウトが始まった02年、法人格を取得する以前のJPFAに転じている。まずは当時の時代背景について、高野に語ってもらった。

「トライアウトが始まるまでは、まだまだ『Jリーグの下のカテゴリーでもプレーをしたい』という選手は少なかったんですよね。海外移籍についても一般的でなかったし、東南アジアでプレーする選手が出てくるのも、もっと先。1999年にJ2ができて、ようやく選手の流動化が始まった感じです。ただしセレクションを受けようにも、あちこち参加すると、それだけで費用がかかってしまう。選手の側からも『何とか一度にできないか』という要望があって、いろいろ入念に練られた結果が02年というタイミングだったと認識しています」

 始まった頃のトライアウトは共催ということで、各クラブやメディアへの告知や運営面はJリーグに任せ、JPFAは参加者の割り振りや当日の選手のケアなど、主に現場を受け持っていた。ただし、当時のスタッフは経理の女性を含めて3人。実質的には2人で現場を切り盛りしながら、外部スタッフのサポートを含め5、6人で回していたという。ここで、知られざるエピソードをひとつ。

「実は第1回は、12月9日に予定していました。ところがその日、東京が大雪になって、雪かきもできないくらい積もったんです。それで12日に延期したんですが、すぐに参加者に知らせないといけない。今みたいにスマートフォンで一斉に告知というのはできない時代でしたから、スタッフで手分けして参加者ひとりひとりに電話しましたね。まだ個人情報の扱いも、そんなに厳しくなかったですから(苦笑)」

 ちなみに、主催者側が見込んでいた参加者の人数は、高野によれば「100人を切るくらい」。結果は12月で80名、翌03年1月で59名だったが「両方出ている人もいたので、ほぼ読みどおり」だったという。02年当時、J1が16クラブ、J2が12クラブ、合計28クラブ。その後、クラブ数は倍近くに増えているが、参加者数は100人を少し超えるくらいの状況が続いている。参加者の数には大きな変化はないものの、トライアウトの内容については、さまざまな試行錯誤の末に今に至っている。

「最初はミニゲームなしで、いきなり11人対11人でした。それとGKだけを集めて、シュートストップとかクロスの対応とか。でも、何回かやっているうちに『そんなの意味ないですよ』っていう指摘があって、ミニゲームを取り入れることにしました。そのほうがシュートもバンバン飛んでくるから、GKがアピールするチャンスも増えますしね。開催時期についても、当初は12月と1月でしたけれど『1月だとオフ明けでコンディション的に微妙』という意見を取り入れて、12月に2日連続で開催するようになりました」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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