連載:道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔

「二刀流」という言葉が生まれたある会話 誰も歩いたことのない道へ、大谷の挑戦

佐々木亨
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悩み続けた末に出した大谷の答え

大谷が日本ハム入りを決断した背景には、二刀流への挑戦が大きかった。交渉で初めて二刀流の話が出た際、大谷は少し笑ったという 【写真は共同】

 ドラフト会議から約1カ月半が過ぎた2012年12月9日。
 岩手県内の空には雪が舞っていた。まだ夕暮れ時だというのに、僕が東北本線の水沢駅に降り立つと空はすっかり闇に包まれていた。雪は相も変わらず降り続け、積雪の間からわずかに見えるアスファルトを濡らしていた。

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 その日、大谷は日本ハムへの入団を決めた。
 道なき道をかき分けるかのように突き進み、可能性「ゼロ」からの決断だ。大谷は当時の心境をこう語る。

「指名されたあとも、メジャーでやってみたいという気持ちが強かったですし、(日本ハムへは)行かないだろうと思っていました。ただ、何回も岩手県に来てもらって、何回も話をさせてもらって、(日本ハムで)やってみたいなという気持ちが強くなっていった。球団としての熱意、栗山監督の熱意も伝わりましたし、交渉を数回重ねていくなかで、ここ(日本ハム)で自分を追い込んでいきたいと思うようになっていきました」

 メジャーへの思いを一度封印し、日本国内でプレーすることを決めたときの記憶は、大谷のなかではおぼろげだ。

「考えがパッとすり替わったわけではないですね。ある瞬間に『行く』と決めたということではなくて、そういうふうに動いていったということじゃないですかね」

 大谷は悩み続けた。何度となく自問自答した。その過程で徐々に新たな思考が生まれ、そして最後は自分の意思で答えを出した。

「最終的には良い判断ができたと今では思っていますし、今でも野球ができていることを考えたら、あのときの決断はよかったんじゃないかなと思いたい部分があります」
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著者プロフィール

1974年岩手県生まれ。スポーツライター。雑誌編集者を経て独立。著書に『あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる』(ベースボール・マガジン社)、共著に『横浜vs.PL学園 松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)、『甲子園 歴史を変えた9試合』(小学館)、『甲子園 激闘の記憶』(ベースボール・マガジン社)、『王者の魂』(日刊スポーツ出版社)などがある。主に野球をフィールドに活動するなかで、大谷翔平選手の取材を花巻東高校時代の15歳から続ける。

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