連載:道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔

高校1年・大谷を野手一本で育成した狙い 壮大な目標「160キロ」に向けて

佐々木亨
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「いずれは160キロが出るよ」

野手としても高い才能を示した大谷だが、佐々木監督は、将来的に「160キロ」を出す投手に育てるため、野手をさせていたという 【写真は共同】

 では、具体的な育成プランはどんなものだったのか。
 佐々木監督が当時を振り返る。

「まだまだ身長が伸びている段階だったので過度なトレーニングや起用はできない。ピッチャーとしては入学直後から130キロ台中盤ぐらいの球速を出していたと思いますが、その時点でチーム内では一番に近いボールを投げていました。それだけに、試合で勝つことを考えれば、喉から手が出るほどに試合で使いたかったというのが本音です。手足が長く、特にリーチの長さはスピードボールを投げるための絶対条件。また、関節の可動域の広さ、股関節や肩甲骨の柔らかさ。そういった親御さんから授かった要素をもともと持っていましたし、試合で投げれば、ある程度の結果はついてきたと思います。でも、入学間もない春先は投げさせることがありませんでした。まずは外野手をやらせて、しっかりと下半身を鍛えてからピッチャーに移行していこうと考えました。徐々に段階を踏んで、一歩一歩階段を登るように。エレベーターのように一気に上がると、逆に一気に落ちることもあるので、体の成長やピッチャーとしての成長、そして人間的な成長が、それぞれにゆっくりとした曲線を描きながら上がっていくように。体と心の育成をやっていこうと最初に決めました」

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 約2年半という高校野球のスパンを見据えた育成プラン。1年夏の県大会前までは、体力強化の目的もあってピッチングはさせなかった。1年春の花巻地区予選で四番として公式戦デビューしたように、野手一本で育てた。大谷はライトのポジションにつくことが多かったが、そこには佐々木監督のこんな狙いもあった。
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著者プロフィール

1974年岩手県生まれ。スポーツライター。雑誌編集者を経て独立。著書に『あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる』(ベースボール・マガジン社)、共著に『横浜vs.PL学園 松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)、『甲子園 歴史を変えた9試合』(小学館)、『甲子園 激闘の記憶』(ベースボール・マガジン社)、『王者の魂』(日刊スポーツ出版社)などがある。主に野球をフィールドに活動するなかで、大谷翔平選手の取材を花巻東高校時代の15歳から続ける。

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