真っすぐ、ひたむき、矢野謙次 レギュラーなき16年間を終えて
代打の切り札としてファンに愛された矢野謙次。16年間のプロ野球生活を語る 【写真:BBM】
万感のラストゲーム
引退試合でのワンシーン。日本ハムでは3年半あまりのプレーだったが、人間味あるキャラクターと、野球へのひたむきさで多くの選手たちに影響を与えた 【写真:BBM】
──16年に及んだ現役生活はどんな日々でしたか?
長かったような、短かったような……。まだやりたかったという気持ちもあれば、その一方で日々の練習や試合に向かう準備に関しては100パーセントやり切ったなというのはあります。総括すればすごく楽しかったですし、引退試合までやっていただいて、お世話になった方たちには本当に感謝の気持ちしかないです。
──最終打席に立つ前はどんな思いが胸の中に去来しましたか?
あの日はいろいろな感情が渦巻いていましたよね。6回に栗山(英樹)監督とコーチから「ケンジ、近ちゃん(近藤健介)のところで代打いこうか」って言われたんですけれど、ベンチでみんなも聞いているわけですよ。だから先頭のハルキ(西川遥輝)なんかは何とか僕にいい形で回そうと、いままで見たことのないぐらい力みまくっていて(笑)。結果的にアウトになってしまったんですけれど、その気持ちがうれしくてね。
──続く大田泰示選手はショートゴロでしたが、気迫のヘッドスライディングで一塁セーフになりました。
そう、泰示がセーフになった時点でこっちはもう泣く寸前なわけですよ。それで翔(中田翔)はセカンドフライかな、たぶんゲッツーだけは避けたいからアイツは意図的に右に打ったんでしょうね。それでベンチに帰ってくるときに「矢野さん、お願いします!」と。
いまだから話しますけれど、最後の打席で涙を流しながらというのは絶対に嫌だったんですよ。あくまでもいつもどおりにやりたくて。だから翔が声を掛けてくれたときは「バカヤロー、泣かすんじゃねえよ……」って思っていました。だからもう打席では相手よりも泣くもんか、泣くもんかという自分との戦いでした(笑)。
──ファウルで粘って唐川侑己投手のカットボールを左前に運びました。
うれしかったですね。この日を迎える前から練習での感覚がすごく良かったので、それを最後に出せた。本当にチームメート、監督やコーチ、ファンの方に恵まれたプロ野球人生だったなって思いました。
──引退をリアルに決めたのはいつごろだったのですか?
2018年シーズンが始まって5試合ぐらいで2軍に落ちたんですけれど、もうそのときには自分の中では決めていましたよね。まだ100パーセントではないですけれど。
──ご家族に相談は?
その時点ではまだ話はしていません。もっとシーズンが進んでから嫁さんには先に伝えました。
──そのときの反応は?
「やめちゃうの?」とかはまったくなかったです。僕の決めたことを尊重してくれて、じゃあ次はどうするかを考えようと。その言葉はすごくありがたかったですよね。
「人の3倍、4倍やれば必ず差は埋められる」
02年ドラフトで巨人から6位指名を受けた矢野(上段左)。同期は木佐貫洋、久保裕也(前段左、右)ら 【写真:BBM】
もう最初は、とんでもないところに自分は来ちゃったな、ですよ。フリー打撃で周囲の選手の打球のスピード、飛距離、バットに当たる確率を目の当たりにしたときに「なんじゃこりゃ」状態でした(笑)。
──その中で自分はこの世界でどう生き残っていこうと?
半端ないなって思いましたけれど、国学院大のときも1、2年生のときは二部リーグでずっと5位とか6位で何をやっても上の大学に勝てない時期があったんです。それでも練習で力をつけていくうちに3、4年生になったときにはその状況をひっくり返していたので。もちろんアマとプロでは違いますけれど、人の3倍、4倍やれば必ずその差は埋められると信じてずっとやってきました。そこだけは16年間変わることなくプロでもやれたかなと思っています。