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広島・天谷宗一郎の悔いなき現役生活
「今になって思う。能力だけでやっていた」

 高い身体能力を生かした、アグレッシブでスピードあふれるプレーが魅力な広島・天谷宗一郎。その姿にファンは期待を膨らませ、いつもその姿に夢を見た。だが、調子の波や故障があって、コンスタントな活躍は果たせなかった。期待された確率の高さと持ち味のはざまで揺れ続けた17年。それでもファンの声援を支えに悔いなく走り抜けた。

故障者続出も、1軍に呼ばれず決意

広島の低迷期からチームを支えた天谷宗一郎。17年間のプロ生活にピリオドを打った
広島の低迷期からチームを支えた天谷宗一郎。17年間のプロ生活にピリオドを打った【写真:BBM】

── 引退から約2カ月。実感はありますか。


 来年、キャンプにスーツを着て行ったときに、ホントに感じるんだろうなあと思います。マツダスタジアムとか大野(合宿所)に気軽に行けないのがちょっと悲しいですね。体は全然動かしてないです。「普通の35歳はバック走なんてやることはないんだな」と分かりました(笑)。


── 引退試合(10月4日巨人戦。マツダスタジアム)はどうでしたか。


 センターで「ああ、これで最後か」なんて気持ちに浸っていたら、いきなり打球が飛んできたんでびっくりしました。足がフワフワしてましたね。


 打つほうは、菅野(智之)選手はガチでした(笑)。あっちはCSも個人タイトルもかかっていたので、ガチなのは分かっていたんですけど、初球ぐらい真っすぐを投げてくれるかと思ってたんですよ。そしたら全部スライダーで。イメージ的には、外野フライ打ってオーバーランして戻ってくるか、ショートゴロとかで一塁まで走って、みたいに思っていたんですけど、打った瞬間、そこにボールありましたからね(笑)。(※結果はキャッチャーゴロ)。


 まあ、最後、菅野選手でよかったです。いまや日本のエースですから。しかも真剣に向かってきてくれてありがたいです。いい引導を渡してくれたなと。


──最後の挨拶は、勝てなかった時代を知る天谷選手らしいものでした。


 今を知っているファンの方からしたら低迷期ですよね。低迷期でしたけど、いろんな経験をさせてもらって、カープには感謝しかないですよ。久しぶりにマツダスタジアムでファンの声援を受けて、やっぱりいいもんだと思いました。ここでやらなきゃ意味ないよなと。僕も17年やりましたけど、半分以上は2軍で過ごしてるので。


── 引退を決められた理由は。


 今年、一度も1軍に上がれなかった、それがすべてです。丸(佳浩)がケガしました、野間(峻祥)がケガしました、それでも呼ばれなかった。そこで「ああ、もう今年で終わりだな」と思いました。実は、今年は「ダメだったらもうやめるつもりでいくから」と、キャンプ前に妻には伝えていたんですよ。

1年目は2軍で打率.050

2002年度入団の新人選手入団発表で松田耕平オーナー、山本浩二監督を囲む。後列左端が天谷。前列右端には石原慶幸の顔も見える
2002年度入団の新人選手入団発表で松田耕平オーナー、山本浩二監督を囲む。後列左端が天谷。前列右端には石原慶幸の顔も見える【写真:BBM】

──野球を始めたのは。


 小学校の、軟式のスポーツ少年団で。ポジションは、左投げで、足が速いんで必然的に外野になるというか。よーいドンがファーストだったのと、高校のときにピッチャーをちょっとかじっただけなので、野球人生の9割8分は外野です。


──福井商高では、甲子園にも3回出場されていますが、プロを意識したのはいつですか。


 3年のセンバツのときだったかに、「注目している」というスカウトさんのコメントが出て、マジメに考えるようになりました。あと、『週刊ベースボール』なんかでも、選手の一覧表が出たりするじゃないですか。3年のとき、外野手では、僕と、日大三高からヤクルトに入った内田(和也)だけが「A」だったんです。だから僕がその気になったのは、『週刊ベースボール』さんのせいかもしれませんよ(笑)。


──ドラフト9位での入団でした。


 今だったら育成の扱いですよね。入るときは「何とかなるだろう」と安易に考えていましたが、1年目の(ウエスタンの)打率が.050でした。どういう心境だったんですかね、その当時は。そのときの自分に聞いてみたいですね(笑)。まあただ、足には自信があったので、とにかく打率と盗塁で数字を出すしかないと思っていました。


──2年目にウエスタン・リーグで盗塁王になっていますね(これを含め、ウエスタン・リーグでは3度の盗塁王)。


 それは木下富雄2軍監督が、「出たら全部走れ」と言ってくれたおかげですね。僕は足が武器でしたから。


──下積み時代は、とにかく数字で目立つことだと。


 打率、盗塁を含め、とにかくすべてに、確率を上げることしか考えてなかったです。ファンの人に僕のイメージを聞いたら、「いいときはいいけど、ダメなときはダメ」と言われると思うんですけど、自分でもそれは自覚していました。だから何とかそれを、常に中間ではダメですけど、上は多少低くなってもいいから、下を何とか上げていきたいなと。下積み時代に限らず、そればかり考えていました。


 ただ、その気持ちが強くなりすぎると、「あのコースはああ打って、このコースはこう打って」と、きれいに野球をしようとして、かえって体が動かなくなってくるんですね。それでまた思い切りよくやる自分の持ち味を思い出して戻したり……。ホントに現役生活は、それの繰り返しでした。結局、隔年でしか活躍していないですから、僕は。コンスタントに成績を残している人は、ホントに考えて野球をやってるんだなと、やめて今、あらためて思います。


 僕は「やり切った」という気持ちがあるので、野球人生に悔いはないですけど、それとは別に、もうちょっとバッティングを考えて、課題を明確に持てばよかったなという思いはありますね。みんな言うことなんですよ、「考えて野球やりなさい」って。でも、特に若手のときはそうだと思いますけど、何を考えればいいのかが分からない。それに早く気づけるかどうかですよね、プロで成功できるかどうかは。今になって思いますよ。やっぱり練習で、来た球を気持ちよく打ってるだけではダメだったんだと。能力だけでやってたんだと。それは思いますね。


──若手時代は、ケガも多かった。


 そこは僕のプレースタイルと裏表かもしれないですね。だからケガについて後悔したことはないです。


──ただ、そういうスタイルが、ファンの方に愛されたという部分もあるのでは。


 きれいに言ったらそうですよね。まあ、さっきも言ったように僕の場合、「きれいに野球をやりたい」と思ったのは、完全にないものねだりでした。自分らしくいくのが一番よかったのかな、と思います、今となっては。

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