広島・天谷宗一郎の悔いなき現役生活「今になって思う。能力だけでやっていた」

週刊ベースボールONLINE

打撃では、主に代打ではあったが打率.315をマークした2014年が最も感触がよかったという 【写真:BBM】

──それでもだんだんと、1軍に上がる力をつけていきます。

 2軍では、木下さんと、長内(孝)打撃コーチには、野球選手としての骨組みを作ってもらいました。練習は、とにかく量はやりましたね。こなせる体力と自信はあったんで。それで、1軍がブラウン監督になって、08年からは期待して使っていただいて。そこで内田(順三)打撃コーチと出会えたことも大きかったです。僕のバッティングのすべては内田さんの指導なので。

 バッティングは、一番よかったのは14年ですかね(主に代打ながら、打率.315)。何でも打てる感じでしたから。10〜13年とダメだったので、「いい波が来たら絶対逃さない」というつもりで、何でもかんでも細かくノートにつけて。それで一年間やり切れたのがこの年でした。ただそのあと、また結果を欲しがるようになって、きれいに打とうという気持ちが出てきてダメになりましたけど。もっとシンプルに、「センター返し、センター返し」でよかったのかもしれないですね。

伝説のスーパーキャッチとファンへの思い

これが伝説のスーパーキャッチ。2010年8月22日、横浜戦の8回表。ハーパーの打球をフェンスによじ登ってエビぞりになりながらも好捕 【写真:BBM】

── 守備では、何といってもフェンスによじ登ってのスーパーキャッチが有名です(10年8月22日、対横浜=マツダ広島。ハーパーのホームラン性の打球を好捕)。

 あれは狙っていました。子どものころからずっと外野なので、打った瞬間、ホームラン性かどうかはだいたい分かる。ハーパーが打った瞬間、「ギリギリ入るぐらいだな」と思って、あれでいこうと。一度、目を切ってフェンスに登って、パッと振り返ったら、ボールがそこにあって。

 あれはホントに偶然が重なったプレーです。登ったところがボールのラインを外れたらダメですし、ラインに入っても、打球がもっと飛んだら捕れないですし。けど、マツダスタジアムはたぶん、登って捕れるように設計されてるんだと思いますよ。フェンスの上に幅があるし、フェンスは高くなくて、手がかかるようになっているし。ただ、フェンスに近いところを守っているセンター以外では無理だと思いますけど。まあしかし、今から思うと怖いことしてると思いますね。フェンスに登ったけど、ボールが届かなくて前に落ちたらどうするんだって(笑)。

──チームの苦しい時代を支えられた天谷選手ですが、今、強くなったカープを見てどうですか。

 プロ15年目で初めて優勝できたのはすごくうれしかったですよ。去年、おととしはビールかけも一緒にやりましたし、去年は優勝の瞬間もグラウンド上にいさせてもらいましたし。ただまあ、自分が数字を残してないと、ホントに心の底から喜べないというところもなくはないですけどね。

──最後に、応援していただいたファンの皆さんに。

 17年間、ホントに長い間、ご声援ありがとうございました。山から出てきた小僧みたいなヤツが、そのまま大きくなったようなプレースタイルでしたけど、そんな自分を一生懸命応援していただいて。その応援の分を返せたかどうかは分からないですけど、自分なりに必死にやってきたつもりではあります。これからは解説者としてプレーの解説や、選手の素顔など、カープのことを伝えていくので、あまりクレームとか入れないで(笑)、優しく見守っていただけたら。

──お話を聞くと、けっこう悩み苦しんだ部分も多いプロ生活だったのですかね。

 ただ、悩んでも、答えが見つからないまま「まあいいや」ってなっちゃうタイプなんです。だからダメだったんですかね。

──ご自身の中では、プロ野球生活は、ダメだったという意識のほうが強かったりするんですか?

 ダメというか、苦しいときのほうが多かったです。でもただ、打った瞬間だったり、ホームラン打ったときのベース一周だったり、1軍でファンの歓声を浴びたり、そういう瞬間があるから、苦しいときを乗り越えてこられたんだと思います。それがなかったら無理ですね。ホントにそれは、何物にも代えがたい瞬間ですからね。バック走をしない、ほかの35歳では得られない感覚ですから(笑)。そういう意味では、いろんな人に支えられて、すごく幸せな野球人生だったと思います。

(取材・構成=藤本泰祐、写真=BBM)

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