本山雅志「選手権はひとつの通過点。でも、ものすごく大事な通過点だった」
本山雅志にとって、高校サッカー選手権はどんな意味を持っているのか 【千葉格】
1999年にはワールドユース(現U−20ワールドカップ)準優勝の立役者となり、鹿島アントラーズではいくつものタイトル獲得に貢献した。若い頃は意のままに敵陣を切り裂くドリブラーとして、年齢を重ねてからは相手の急所を突く万能型のアタッカーとして、鹿島の背番号10を強く印象づけた。39歳になった今も、生まれ故郷の北九州に“ホーム”を移してピッチに立ち続ける。
その名前が初めて全国区となったのは、今から23年前のことだ。冬の全国高校サッカー選手権大会。優勝候補の一角として出場した東福岡(福岡)のボランチは、誰よりも線が細く、背番号19を身にまとった1年生だった。しかし本山は、1年生らしくない落ち着きと抜群のサッカーセンスで東福岡をベスト4に導いた。
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シュンさんは、まともにマークできる相手じゃなかった
小さい頃からテレビでよく観ていました。Jリーグが始まったのが中学2年の時。それでも、選手権は特別でしたよね。冬のあの時期は学校が終わったらソッコーで家に帰って、テレビの前に座っていた。そんな感じです。
――あの大会に出場したいという思いは?
選手権に対しては「出たい」じゃなくて「すごい」という気持ちのほうが強かったですね。ほら、東海大五(福岡)がベスト4に入った年(第69回/1991年)があったじゃないですか。あのチームに地元出身の選手がいて、小学校に来てくれたんですよ。で、サインをもらいました。
――高校生に?
そう(笑)。つまり、選手権に出た高校生をプロを見るような目で見ていたんですよね。それくらいの影響力があった。“憧れ”が“目標”に変わったのは中2くらいだったかな。すぐに「東福岡に行きたい」と思うようになって、お父さんと一緒に試合を観に行きましたよ。「どこのポジションなら試合に出られそうか?」なんて考えながら。
――実際のところ、あの東福岡で1年からレギュラーポジションを奪ってしまった。とにかく線が細いのに、めちゃくちゃうまい1年生ボランチ。あれは衝撃的でした。
ボランチに抜てきされたことがすべてでした。特別コーチのような立場だった寺西忠成さん(元八幡製鉄サッカー部監督)の存在が、ホントに大きかったんです。1から10まで全部教えてもらったので、寺西さんがいなかったら僕なんて普通の選手だった。マジでそう思います。
1年生の頃はただただ必死ですよね。だって、2つ上の学年はとにかくすごいチームで、前に小島宏美さんと山下芳輝さん、それから生津将司さんがいて、後ろには西政治さんと1つ上の古賀正紘さんがいた。ただ、萎縮することはなかったんですよ。もちろん気を遣ってもらっていたところもあると思うけど、なぜか伸び伸びとプレーすることができた。
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