連載:僕らがセンシュケンから教わったこと

浅野拓磨「選手権での教訓なんです。同点ゴールでジャガーポーズはやらない」

細江克弥
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浅野拓磨は3年連続で高校サッカー選手権に出場。その名を全国に知らしめた 【千葉格】

 三重県に生まれた浅野拓磨にとって、県内屈指の名門である四日市中央工は当然の進路だった。そう思って聞いてみると、「選択肢にはなかった」という予想外の答えが返ってきた。

 プロを志していたことは間違いない。しかし浅野は、四中工を経由しない別のルートでたどり着くことをイメージしていた。なぜなら、小学生の時に初めて知った四中工は、高校サッカー選手権であの“怪物”を擁するチームと互角に渡り合い、まるでプロクラブのような“雲の上の存在”に感じたからである。そんな浅野が四中工のユニホームを着ることになる背景には、周囲で支えてくれた人々の後押しがあった。

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中学時代の先生の言葉で、迷いが吹っ切れた

――浅野選手は確か、世の中のサッカー事情に敏感なタイプではないですよね(笑)。

 はい(笑)。だから選手権のこともほとんど知らなくて、唯一、印象に残っているのが平山相太さん。確か、いつかの大会で国見(長崎)と四中工が対戦したんですよね(82回大会・準々決勝)。その試合をたまたま見て「この人すごいな」と思ったし、テレビを通じてその“怪物”ぶりにワクワクしました。だから、僕の中では「選手権=平山さん」。その平山さんと戦った地元・三重の四中工もすごいチームで、まるでプロクラブのような見方をしていました。当時小学生だった自分にとっては、「行きたくても行けないところ」という感じだった気がします。

――そういう感覚、なんとなくわかる気がします。

 四中工でサッカーをすることがどれだけ大変か、それだけはなんとなく理解していました。自分が小学校1年生の時、6年生で一番うまかった人が、四中工に行って3年間ずっとAチームの試合に出られなかった。それから、とにかくお金がかかるという話を聞いていたので、家族が多いウチは経済的な理由でムリだろうなとも思っていて。その2つの理由で、最初から選択肢になかったんですよね。プロになりたいという気持ちがあったとしても、別のルートで目指すんだろうなと。

――最終的には、中学サッカー部の顧問の先生に説得されるんですよね。

 中学3年の頃には三重県選抜でも中心としてやれていたので、周りの人たちには「プロを目指すなら四中工に行ったほうがいい」と言われていました。中学サッカー部の内田先生もそのひとり。経済的な理由については、先生の「3年間だけ親に我慢してもらって、3年後から少しずつ恩を返せばいい」という言葉で一気に吹っ切れました。あの言葉がなかったら、四中工には行かなかったかもしれません。つまり、僕はあくまで“プロになるため”に四中工を選んだので、当時はまだ、選手権に対する特別な憧れは持っていなかったんですよ。

――でも、当然ながら浅野選手は3年連続で選手権に出場します。1年時もスーパーサブのような立場でピッチに立ちました。

 実は、あまり記憶に残っていなくて。四中工に行って、生まれて初めて上下関係がある中でサッカーをやったんですよね。1年生の時はそれに慣れるのが少し難しくて、やっぱりどこかで萎縮していたし、100パーセント楽しめていたかというとそうじゃなかった。ただ、新チームになったばかりの頃、チームの状態が良くないということで士郎さん(樋口監督)から「何をどう変えるのか、自分たちで話し合え」と言われて……。
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著者プロフィール

1979年生まれ、神奈川県藤沢市出身。『ワールドサッカーキング』『Jリーグサッカーキング』『ワールドサッカーグラフィック』編集部を経て2009年に独立。サッカーを中心にスポーツ全般にまつわる執筆、アスリートへのインタビュー、編集&企画構成などを手がける。

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