“バレンティンキラー”が語る現役生活 「あっという間の9年間でした」

週刊ベースボールONLINE
 30歳を越えても引き締まった体は健在。ストイックに自分を追い込む加賀繁の姿は、若手のお手本でもあり、人格者でもあった。外国人スラッガーにめっぽう強く、チームの窮地を何度も救った。そんな右サイドハンド投手が、今季限りで現役を退いた。

最後の1球はスライダー

同期入団の筒香をはじめナインの手による胴上げで現役生活にピリオドを打った 【写真=BBM】

 2010年にドラフト2位で横浜(現DeNA)に入団。同1位の筒香嘉智とは同期入団だ。2年目以降、中継ぎで適性を見出されると、長きにわたりチームのブルペンを支えてきた。引退試合では満員の横浜スタジアムで、4年ぶりの先発マウンドに立った。

──現役生活は長かったですか、短かったですか。

 本当にあっという間の9年間でしたね。

──引退されて時間がたちましたが、現役への未練はありませんか。

 シーズンが開幕して、スタジアムの歓声が聞こえたら「いいな」なんて思うかもしれませんね。現時点では体の故障などを気にしなくてよくなったので、そういう面で引退を感じています。朝起きて「今日は肩が重いな」とか「ヒジ、張ってるな」ということを常に感じながらの現役生活でしたから、気持ちはラクになりました。

──9月21日の中日戦(横浜)が引退試合でした。

 後藤さん(G後藤武敏、同じく今季限りで引退)に「引退試合はどうする?」と話をしていて、当初は「断るつもりです」と伝えていたんです。というのも、自分は口下手で、大勢のファンの前に出ていくのも苦手なので……。その一方で引退試合をやりたい気持ちもありました。一番下の息子(2歳)がまだ球場に見に来たことがなくて、一度雰囲気を味わわせてあげたいという気持ちでした。

──引退試合をやるか、どうか迷っていた。

 ええ。でも後藤さんが「俺は自分のためじゃなくて、子どものために引退試合をする。一緒にやろう」と言っていただき、あのような形(後藤は翌22日)でやらせていただきました。

──打者1人限定の先発で、対戦したのは中日の平田良介選手。最後の1球は2−2から首を振ってスライダーを選択しました。

 スライダーがすっぽ抜けました。引退試合とはいえ、チームはクライマックスシリーズ(CS)を争っている大事な試合です。試合前に捕手の(伊藤)光は「好きなボールを投げましょう」と言ってくれたけれど、いきなり一発を食らうわけにはいきません。スライダーでここまで生きてきた人間なので、最後は自信のあるスライダーで勝負にいきました。

──当然ながら平田選手も打つ気満々でした。

 試合前に平田選手から「今日はよろしくお願いします」と足を運んでくれました。自分も「こんな雰囲気でやりづらいよね。申し訳ない」とあいさつをして、スポーツ紙の記事に「真剣勝負!」と書いてあったので「本気で行くからね」と笑顔で話しました。

──2−2から空振り三振でした。

 抜け球にびっくりして空振りしてくれたのかな(笑)。

──試合は筒香選手が本塁打を放ち、引退に花を添えました。

 ゴウちゃん(筒香)とは同期入団ということもあり、「同期が減っちゃいますよ。もう少し一緒にやりたかったですね」と気を遣わずに言ってくれたのがうれしかったです。入団直後は僕が1軍で投げていて、彼が2軍で過ごしていた。最後は完全に立場が逆転してしまいましたね。

バレンティンなどの強打者を抑える「外国人キラー」として活躍した加賀繁。9年間のプロ生活を語った 【写真=BBM】

──今シーズンは9試合で1ホールド、防御率8.10という数字でしたが、内容を見れば7月に2試合で失点したのみでした。

 点の取られ方がよくなかったです。大量失点が多く、「なぜ1点、2点で止められなかったんだろう」と今でも思います。振り返ると体力的な面が原因だったのかもしれません。1試合投げて、翌日もマウンドに上がると正直きつい部分もありました。

──シーズン終盤に入り、引退を決意します。

 1、2年前から「そろそろかな」ということは感じていました。社会人から入団したこともあり、1年1年が勝負だと思いながらやってきましたし、結果がでなければ自分で身を引こうと考えていました。

──引退を決断する前には、恩師である上武大の谷口英規監督に相談されています。

 はい。谷口監督には「9年間幸せだったか?」と聞かれ「悔いはないです」と返答しました。プロの世界で9年間、自分で考えて、突き詰めてやってきました。大学で投手に転向して、まさかプロに行けるとは思ってなかったので「幸せでした」と伝えました。

大学で花開いた才能、プロでは中継ぎとして頭角

2012年は61試合登板、翌13年も48試合にマウンドに上がった。疲労を感じる暇もなく腕を振った 【写真=BBM】

 恵まれた体格があるわけではない。しかも、本格的に投手を始めたのは大学に入ってからという遅咲きだ。しかし、「練習量はチーム1」と周囲の誰もが口をそろえる努力で、夢舞台への道を切り開いてきた。

──高校では三塁手兼投手を務め、大学から本格的に投手に専念したことが大きなターニングポイントとなりました。

 自分は打って、守って、走るのが好きで、もともとは野手志望で大学のセレクションを受けました。入部後に「投手だったら頑張り次第で可能性がある」と監督に言われて投手転向を決意しました。

──そのときはオーバーハンド?

 野手投げのスリークオーターでした。その後サイドを勧められて、フォームを変えました。当時の東芝・磯村(秀人)さんのフォームを動画で見て参考にしましたね。あとはアンダースローではありますが、牧田(和久)さん(現MLBパドレス)の体の使い方も参考にしました。

──いつからプロを意識し始めましたか。

 大学2年までは練習試合にすら出られなかったのが、4年春にドラフトの雑誌に自分の名前を見つけて「あれ!? もしかしたら……」と意識するようになりました。でも将来を考えたら上位指名でプロに行ったほうがいい、と谷口監督にアドバイスをいただき、社会人に進みました。住友金属鹿島(現・新日鉄住金鹿島)の中島彰一監督に「ウチで育てたい」と声をかけていただいたんです。

──住友金属鹿島では社会人日本選手権を経験(08年)。都市対抗にも日立製作所、富士重工業の補強選手として出場し(08、09年)、ドラフト指名につながります。

 日立製作所に補強で行ったときに1イニングだけ都市対抗で投げる機会がありました。今まで大学選手権など大舞台で緊張して力を発揮できなかったのが、この試合は緊張感とモチベーションという気持ちのバランスがうまく働いた感じがあったんです。自分で成長を実感しましたね。ドラフトでは、そういう部分を評価していただけたのだと思います。

──ドラフト2位で横浜入団が決まり、どんな気持ちでしたか。

 ホッとしました。それが一番でしたね。

──プロ1年目は先発として登板。2年目からリリーフへ転向します。

 まさか1年目から1軍で投げられるとは思っていませんでした。とにかく先発、中継ぎ、抑えのどこでもいいから1軍で投げて、早く名前を覚えてもらいたいと思っていました。

──2012年にはキャリアハイの61試合登板、26ホールド、防御率2.86。このころは中継ぎが自分の生きるポジションという意識でしたか。

 この年に投手コーチのデニー(友利結)さんから「1年間、中継ぎでいく」と言われました。少し先発が恋しい気持ちもありましたが、それよりも与えられた場所で腕を振ろうと切り替えましたね。自分が先発で投げていると6〜7回くらいにつかまることが多かった。中継ぎでは6〜7回あたりをよく投げさせてもらって、自分が踏ん張らないと先発に勝ちがつけられない、と必死でした。リリーフとしてすごく勉強になった1年でしたね。

──先発と中継ぎで準備や練習など変わるものですか。

 この頃は体もすごく元気だったので、食べる量が増えたくらいですかね。でも、中継ぎで登板が増え疲労がたまっているときは、トレーニングをやりたいんだけど体を休めたほうがいいかな、という日もありました。

──14年以降、登板数が減ったシーズンもありました。何に苦しんでいましたか

 15年でガクッと体が動かなくなって、ファームで過ごすことが多くなりました。そのオフに「このままだと終わるな」と思って練習量を増やしたら16年春先にヒジをケガしてしまって、全く投げられない時期を経験しました。このころから「1年1年が勝負」ということを強く意識するようになりました。

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