野村克也からの手紙

杉浦忠様 エースの君へ
『野村克也からの手紙』

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南海のエースとして活躍した杉浦氏
南海のエースとして活躍した杉浦氏【写真は共同】

 互いの能力を認め合い、助け合う。信頼する同僚がいる職場なら、自然と成果が上がっていくものだ。とはいえ、何か些細な一言や、人事の決定事項など、思いがけないことがきっかけで、同僚との関係に変化が生まれることもある。仕事でも人生でも、打撃になりうる出来事だ。


 野村克也氏が書いた一通の手紙。宛名は杉浦忠氏。南海時代にバッテリーを組んだ名投手だ。同い年だが、大卒の杉浦氏の入団があとになる。ストレートとカーブだけでシーズン38勝した年も。運動能力が高く、受ける捕手としては「ただ壁になればよかった」。その球を13年間、受け続けた。


 杉浦氏は2001年、66歳の若さで急逝。野村氏の手紙に、にじむ思いは。

企業秘密は、同僚にも漏らしてはならない

 スギよ。俺が南海を離れてから、すっかり会うこともなくなっていたな。


 同い年とはいえ、お前は六大学の立教出身の大スター。しかも、鶴岡監督自ら引っ張ってきた選手とあって、高卒のテスト生だった俺とは、最初から扱いが違ったなあ。


 お前は1年目から27勝を挙げ、南海ホークスのエースになった。バッテリーを組んで、13年。遠征先の宿舎でも、ほとんどいつも同室だった。広瀬(叔功)と3人、よく連れだって夜の街へ出かけたな。お前は酒に強いほうだった。俺はといえば、野村家代々の酒に弱い体質だから、薄ーい水割りだけで、もっぱらホステスさんたちから『ささやき戦術』のネタになりそうな話ばかり集めていた。


 俺たちは練習をちゃんとはしていたが、試合後も、デーゲームの前日でも構わず、夜遊びに出かけた。だれが呼んだか、『南海の三悪人』。その称号は、のちに江本孟紀、門田博光、江夏豊の3人に取って代わられたのだが。


 スギはピッチャーらしからぬ、優しい性格だった。常に物腰も柔らかく、とりわけ女性に優しいジェントルマン。なるほど女性にモテモテだった。だが亭主関白なのか、奥さんにだけはぶっきらぼうな話し方をする。だから遠征先の部屋で電話をしているとき、奥さんが相手だと、話し方ですぐにわかったものだった。


 うらやましかったのは、その筋肉だ。


 1960年のオフ、お前と一緒に日米野球のメンバーに選ばれた。あの年は、サンフランシスコ・ジャイアンツが来日。遠征の電車でメジャーのスーパースター、ウィリー・メイズと乗り合わせ、私は彼と野球談議をした。彼の半そでのシャツから伸びた筋肉隆々の二の腕に、俺はくぎ付けになった。「ちょっと触らせてくれないか」と言うと、快く了解してくれた。


 そのとき触ったメイズの腕と、スギの腕の筋肉の感触が、まったく同じだったのだ。筋肉の上にピッタリ張り付いた皮は、つまもうとしても筋肉から離れない。


「お前の体は、メイズ並みだなあ」


 私はうらやましさのあまり、ため息を漏らした。

ベースボール・マガジン社

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