仙台89ERSが上げた反撃ののろし 経営改革で5年後のB1制覇へ

大島和人

B2降格初年度ながら、目立った成績を残せなかった仙台89ERS。オーナーチェンジというターニングポイントを迎えている 【(C)B.LEAGUE】

 Jリーグの初代チェアマンでもある川淵三郎氏は、Bリーグ創設に向けた動きの中で、さまざまなクラブ経営者と対面している。以前のインタビューで彼は「若いけれど、バスケ界はJリーグのスタートのときに比べて良い経営者がいる」という感想を述べていた。

 確かにBリーグの経営者はプロ野球やJリーグに比べてトップの平均年齢が低い。加えて一からクラブを築き上げた“ベンチャー的創業者”が多い。彼らは総じて自立していて、行動力があり、リスクにおじけづかない。

 若い経営者から「より若い経営者」にバトンをつないだのが、B2の仙台89ERS(エイティナイナーズ)だ。

 スポーツビジネスは今の日本の中でも珍しい成長産業だが、それだけ進化も激しい。激しい変化という波を乗り切れれば大きな発展をつかめるが、十分な手を打たないとそのまま沈んでしまう怖さがある。Bリーグに限らず、プロスポーツ全体について言えることだ。仙台のオーナーチェンジは、そんな時代の一つの象徴かもしれない。

Bリーグ発足の波に乗り切れなかった仙台

 仙台は2005年に6クラブで立ち上げられたbjリーグのオリジナルメンバーだ。6月末で退任する中村彰久代表取締役(47歳)は当時をこう振り返る。

「私は26歳のときに東京海上保険でプロのコーチになったんです。そのときに当時は三井生命だった河内(敏光/元bjリーグコミッショナー)さんをはじめ、トップリーグを立ちあげる、立ち上げようとしている人たちとの接点ができた。プロリーグを作っていかないと、日本のバスケ界は企業チームの休廃部でどんどん衰退していく。そんな危機感を持った人達の集まりに入れてもらった」

 彼は新リーグ発足に向けた動きに関わっただけでなく、自身も故郷・仙台でクラブを立ち上げた。しかし道のりは楽なものでなかった。

「33歳で会社を作りましたが、地元の社長さんを知らないし、行政にも顔は利かない。協力してくれる人を募って何とか立ち上げましたが、最初の数年は相当な赤字でかなり厳しかった」

 そんな中でも「ナイナーズ」は地域に少しずつ根付き、bjリーグ屈指の人気クラブとして活動を続けていく。11年の東日本大震災という大きな試練はあったが、16年9月のBリーグ開幕はB1で迎えた。1シーズン目は8社だった(年間50万円以上を支援する)オフィシャルスポンサーは、現在90社まで増えている。

 一方でクラブはBリーグ発足後の大きな波にうまく乗れなかった。各クラブの経営規模は急拡大し、加えてbjリーグにあった選手を拘束する「仮保有権」の仕組みがなくなった。選手、コーチ共に激しい引き抜き合戦が起こり、仙台はそこで後手を踏む。

 中村はこう説明する。「投資して赤字になっても埋められるクラブならいいですけれど、僕は個人で埋められないから、赤字にできない。ウチみたいな個人筆頭株主、個人社長というクラブが経営的に厳しくなるのは分かっていた」

 琉球ゴールデンキングスは明確に例外だが、現在B1に残っている旧bjリーグのクラブはそれなりの規模の法人が主要株主となっている例が多い。個人と法人ではどうしても取れるリスクの大きさが違う。

中村代表取締役が下した決断

6月末で退任する中村代表取締役(右) 【(C)SENDAI 89ERS】

 16−17シーズンの仙台は営業収入が4億4676万円。B2に降格した今季は大きな減収となり、赤字も発生する見込みだ。成績もB2の18クラブ中14位と大きく沈んでいる。競争にクラブの「稼ぐ力」が追いつかず、現場にそのしわ寄せがいってしまった。

 Bリーグはクラブライセンス制度の運用を通して、債務超過に陥る可能性がある仙台の財務状況を早くから把握していた。仙台がB1を目指せるクラブであり続けるための「次の一手」を模索し、新スポンサーの獲得、新資本の注入、経営者の交代までさまざまな可能性を検討していた。

 最終的に中村は、私心を排除した決断をした。それはオーナー、経営者の交代だ。

「強いチームを作れる可能性のある別の方に引き継いでいくことも、私の重要な仕事かなと思いました。チームが地域のものという前提の中で、そこに投資をしてよりチーム価値を高めていくのが重要です。それをできる人がチームを持つべきで、できないのにしがみついているのは良くない」

 中村は仙台を退任後、日本バスケットボール協会のスタッフに就任。クラブとのパイプなどを生かし、今までの経験を別の形でバスケ界へ還元していくことになっている。

 新社長に就任する渡辺太郎は38歳。中村と同じく宮城県の出身で、市立仙台高校バスケ部ではキャプテンを務めていた。東北工業大を卒業後、地元で働いていた彼は、04年秋に東北楽天ゴールデンイーグルスの発足に向けた職員募集に応募。当時8000人がチャレンジした難関を突破し、球団一期生20名の一員となった。

 渡辺は営業を皮切りにチケット、スポンサー企画など球団の各部門を担当。マーチャンダイジングの責任者としては、13年の日本一という追い風もあり、グッズの売り上げを倍以上に伸ばした。日本のプロスポーツでおそらくもっとも進んだ運営を行っている球団の主要メンバーとして、部門が変わっても常に結果を出していた。

 彼は職員としての安定でなく、自身が責任とリスクを負う立場を望んだ。仙台駅前の自宅マンションを売却するなど自ら資金を捻出し、株主としてクラブへの出資も行うことになる。まさに「ベンチャー経営者」としての振る舞いだ。

 渡辺は言う。

「ナイナーズ、リーグなどバスケ界で働くとしても、職員としてではなく経営者としてやってみたいと思っていた。仙台はいろいろな要素がちょうどよく集まっているので、僕はチャレンジしたかった。勝算が無かったらやりません」

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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