2011年 東日本大震災とJリーグ<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

チャリティーマッチ開催へのそれぞれの思い

当初、小笠原(右から2番目)はJリーグからのチャリティーマッチ出場の依頼を断っていた(写真は試合前日のもの) 【宇都宮徹壱】

 この間、Jリーグの動きは迅速であった。15日に臨時実行委員会を開催(仙台、モンテディオ山形、水戸ホーリーホックは参加できず)。17日、Jリーグは日本代表とJリーグ選抜による『東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!』開催を発表する。プロ野球界が開幕日をめぐってセ・パ両リーグの足並みがそろわず、大相撲はおりからの八百長問題で自粛を余儀なくされる中、サッカー界が先陣を切ってチャリティーマッチ開催を決断した。決断の背景について、当時チェアマンだった大東はこう回想する。

「確かに、『こんな時にサッカーをやっている場合ではないのでは?』という意見があったようにも思います。けれども、ここはひとつサッカーで日本を元気づけようという発想が、(Jリーグの内部で)自然と起こったと記憶しています。リーグ戦は中断していますから、スタジアムを確保するのは難しくなかった。ただし電力確保のこともあり、関西での開催が決まりました。JFA(日本サッカー協会)の小倉(純二)会長も、すぐに快諾してくれましたね」

 おりしも25日と29日、日本代表は国内での親善試合を予定していた。チャリティーマッチは、長居スタジアムで29日に開催することが決定。Jリーグ選抜のメンバーは22日に発表された。当然、「被災地を代表するJリーガー」として、小笠原のもとにも出場オファーが届く。しかし彼は当初、このJリーグからの依頼を断っていた。

「理由ですか? まず目の前の人助けを優先したかったし、今はサッカーができる状況でないと思ったから。でも、だんだん物資を配ることに限界を感じるようになって……。そんな時に、避難所で『サッカー頑張ってね』とか、『またプレーしているところが見たい』とか声をかけられるようになったんですね。もしも自分がサッカーをすることで、それを見た人が喜んでくれたり、頑張ろうと思ってくれたりする人がいるんだったら、やる意味があるのかなと思って。それで、チャリティーマッチへの出場を決めました」

 一方、被災地のクラブである仙台からは、リャン・ヨンギと関口訓充が出場することが決まった。指揮官の手倉森は、それまで解散状態だったチームの再集合を、チャリティーマッチ前日の3月28日に設定。選手を送り出す立場の彼も、実はJリーグのこの決定に背中を押されていたことを、今回の取材で明かしている。

「28日に再集合をかけたのは、リーグ戦再開(4月23日)の1カ月前というのもありますし、チャリティーマッチ開催によって日本のスポーツ界が動き出す流れができつつあることを感じていました。われわれは、いつまでも打ちひしがれてはいけない──。そんな思いを新たにした記憶があります」

<後編につづく。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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