マイケル中村が送る第2の野球人生 豪州代表投手コーチとしての使命
引退から6年ぶりのユニホーム
オーストラリア代表投手コーチとして久々にユニホームを着たマイケル中村。かつての日本ハム時代の話からこれからのオーストラリア代表についてなど幅広く話を聞いた 【阿佐智】
名古屋、大阪での2連戦のハードスケジュールだった日本遠征。試合当日の名古屋から大阪への移動にもかかわらず、マイケルは快くインタビューに応じてくれた。稲葉篤紀監督、金子誠、建山義紀両コーチと日本ハム時代の同僚との再会もあり、その表情は明るい。胴回りを中心に幾分、ふっくらした印象だが、その姿は「あの頃」そのままと言ってよかった。
現在、彼は故郷オーストラリアのメルボルン郊外で家族とともにのんびりとした生活を送っている。メジャーで2年、日本で8年。10シーズンにわたるトップリーグでの活躍は、十分な成功と言っていい。オーストラリアではリタイアし、好きなことをして余生を過ごすのは、成功者の証しとされる。
引退したのは、12年。ボール片手の旅から旅への生活を終えた彼は、ジュニアアカデミーで子どもたちに野球を教えながら家族との時間を過ごしていたが、2年後に迫ってきた東京五輪に向けて強化を図るオーストラリア野球連盟のオファーに応じ、6年ぶりにユニホームに袖を通した。
06年は守護神として胴上げ投手に
2006年には当時のリーグ記録となる39セーブを挙げて、日本ハム25年ぶりの日本一に貢献。日本シリーズでは胴上げ投手となった 【写真は共同】
「大学から10年はアメリカにいたんで、日本語は一度忘れてしまったんだ。日本プレーしていたときには、ペラペラに戻ったんだけど」
ただし、パスポートはいまだ日本のものを使用している。オーストラリアではまだまだマイナースポーツの野球を10歳で始めたのは、日本人というルーツのためかもしれない。14,5歳の頃にはメジャーリーガーを夢に抱くようになった少年は、奨学金を得て、アメリカの大学に進学する。
「やっぱり、野球の技能向上にはオーストラリアよりアメリカの方がいいからね。今でも思うけど、オーストラリアの選手は、一生懸命やらなければメジャーや日本に行けないかを理解しなければいけないよ。もちろん、日本のプロ野球のことも知っていたけど、まずはオージーたちの多くがそうするように僕もアメリカを目指したんだ」
1998年、大学卒業と同時に大リーグのミネソタ・ツインズと契約を結んだ彼は、早速、有望株の集まるA級フロリダ・ステート・リーグでプロデビューを飾る。03年にはメジャーデビューを飾り、その翌年もブルージェイズでプレーした彼は、日本行きを決意する。
「あこがれのヒデオ・ノモがプレーしていた日本でやってみたかったんだ」
ここで日本のパスポートが役に立った。日本国籍を有する「日系一世」の彼は、日本でもドラフト(2004年ドラフト4位で日本ハムが指名)を経て、「日本人選手」としてもうひとつの祖国に帰ってきた。
「日本のレベルが高いことはもちろんは知っていたよ。日本ハムというチームの存在も、小笠原(道大)さん、新庄(剛志)さんなんかのビッグプレーヤーの名前もね。そのほか、田中(幸雄)さん、奈良原(浩)さんなどいい選手がいっぱいたね」
彼が日本でプレーしたのは、05年から12年まで。そのうち、4シーズン過ごした日本ハムでは、メジャーを含む通算勝ち星とセーブのほとんどを挙げている。彼にとって、野球人生のハイライトを過ごした場である北海道への思いは強い。現役時代の最も印象的なシーンとして来日2年目、06年の日本一を挙げる。この年彼は、クローザーとして当時のリーグレコードとなる39セーブを挙げ、日本シリーズの胴上げ投手にもなる。
「北海道にチームが移って3年目、あれでチームのイメージも変わったしね」
25年ぶりの優勝を飾ったチームは、その後4回のリーグ優勝と今やパ・リーグの強豪となった。