野茂のライバルらが米国野球殿堂入り 当選した4選手たちの球歴は!?
野茂と新人王を争った強打のサード
本名はラリー・ウェイン・ジョーンズ・ジュニア。登録名の「チッパー」は、父親にそっくりな男の子を意味する「A chip off the old block」という言葉に由来するあだ名だ。プロ入りは高校卒業後の1990年。当時のナ・リーグ西地区で3年連続最下位という暗黒時代にあったブレ―ブスから全米ナンバーワン指名を受けると、93年の終盤に遊撃手としてメジャーデビュー。翌94年はケガでシーズンを棒に振るも、95年には正三塁手に定着した。ブレーブスはこの年、初の東地区優勝、そして38年ぶりの世界一に上り詰め、その後も同地区11連覇という偉業を成し遂げるのだが、そこには常にジョーンズの姿があった。
ジョーンズといえば、95年にドジャース入りした野茂英雄と新人王を争った“ライバル”として、覚えている方も多いかもしれない。前年夏からの選手会ストライキの影響で、シーズンが144試合に短縮されたこの年、野茂が13勝6敗、防御率2.54、リーグ最多の236奪三振という好成績を残したのに対し、ジョーンズも140試合の出場で打率2割6分5厘、23本塁打、86打点をマーク。投票の結果、わずか14ポイント差で野茂に軍配が上がっている。
惜しくも新人王を逃したジョーンズだが、その後の活躍が目覚ましかった。翌96年から8年連続で20本塁打&100打点をクリアし、この間に打率3割を7度記録。99年には打率3割1分9厘、45本塁打、110打点でナ・リーグのMVPに輝いた。その後は低迷もあったが、2008年には36歳にして打率3割6分4厘で首位打者を獲得し、12年限りでブレーブス一筋の現役生活にピリオドを打った。
前述のとおり、ブレーブスは90年代から00年代にかけて黄金期を築いたのだが、この時代に在籍した選手、関係者の殿堂入りは、グレッグ・マダックス、トム・グラビン、ボビー・コックス(監督)、ジョン・スモルツ、ジョン・シャーホルツ(GM)に次いでこれで6人目になる。今年の候補者には、当時の主力選手の1人で、のちに東北楽天でもプレーしたアンドルー・ジョーンズも有資格1年目で名を連ねていたが、こちらは得票率7.3%で落選。ただし、いわゆる足切りラインの5%は超えたため、来年も引き続き候補者として残る。
通算本塁打が歴代8位の長距離砲
その彼が「僕に自信を与えてくれ、打ち方も教えてくれた人」と感謝してやまないのが、チャーリー・マニエル。そう、78年にヤクルトの初優勝&日本一、翌79年からは近鉄の初優勝&連覇に貢献したあの「赤鬼」だ。89年にドラフト13巡目でインディアンスに入団した当時は無名といってもいい選手だったトーミの才能を見出したのが、チームの打撃コーチを務めていたマニエルだったのだ。
90年からマニエルがマイナーの監督になったことで2人は直接の師弟関係になり、トーミがメジャーに昇格するとマニエルも後を追うようにメジャーのコーチに復帰。00年にマニエルは監督に昇格し、翌年には49ホーマーを放ったトーミの活躍もあって、2人はア・リーグ中地区優勝の美酒を分かち合う。
トーミと聞いて思い浮かぶのが、打席でテークバックに入る前に投手に向けてバットを突き出す仕草で、インディアンスの本拠地プログレッシブ・フィールドにある彼の銅像も、そのポーズを模している。これはトーミにいかに打席でリラックスさせるかで頭を悩ませていたマニエルが、映画『ナチュラル』のロバート・レッドフォード演じるロイ・ハブスの打席での構えを見て、真似してみろと伝えたものだという。
その師弟も02年限りで別々の道を歩み始めるが、2人は12年にマニエルが監督として率いるフィリーズで邂逅。師匠のもとでMLB新記録となる13本目のサヨナラ本塁打を放ったトーミは、夏にオリオールズにトレードされたのち、ユニホームを脱いだ。
これまで600本以上のホームランを打ったバッターは、現役のアルバート・プホルス(614本塁打)とまだ資格のないアレックス・ロドリゲス(通算696本)と、禁止薬物使用の疑念が消えないバリー・ボンズ(通算762本塁打、今年は得票率56.4%)、サミー・ソーサ(通算609本塁打、今年は得票率7.8%)を除いてもれなく殿堂入りしている。得票率89.8%のトーミも、文句なしの選出と言っていい。