1999年 J2元年の劇的な最終節<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

優勝候補は札幌と川崎、そしてFC東京

99シーズンに大分を率いていた石崎。昇格のプレッシャーは感じていなかった、と当時を振り返る 【宇都宮徹壱】

 かくしてJ2元年となる1999年シーズンのJリーグがスタートした。10チームによる年間4回戦総当りの1シーズン制(全36節)で、当時のJ1と同じく延長Vゴール方式が採用された。J1に昇格できるのは上位2チーム。開幕前の下馬評では、年間予算が10億円台のコンサドーレ札幌(当時)と川崎フロンターレ、次いでFC東京が有利と見られていた。ちなみに大分トリニータは、この年の1月にようやく運営会社である大分フットボールクラブを設立。クラブの年間予算は7億円だったが、旧JFLの最後のシーズンは6位に終わり、大分躍進を予想する識者は少なかったと記憶する。

 そして3月14日、J2が開幕する。FC東京は東京・国立西が丘サッカー場に3685人の観客を集め、サガン鳥栖に2−0で快勝。続くベガルタ仙台とのアウェー戦にも2−1で連勝するも、その後は4試合未勝利で足踏みが続いた。序盤戦で苦しんだのは、札幌や川崎も同様。川崎に至っては開幕から3連敗を喫し、監督をベットから松本育夫に代えて巻き返しを図ることとなった。逆に健闘が光ったのが大分とアルビレックス新潟。大分は、開幕の札幌戦と続く川崎戦に連勝。新潟は何と開幕7連勝で、川崎、FC東京、札幌も打ち破って一躍首位に立った。

「ウチ(大分)は札幌と川崎に勝てたけれど、『これで(J1に)いける』とは思わなかったですね。どちらもホームだったし、試合内容も拮抗(きっこう)したものでした。FC東京とだって、4回対戦して0勝1分け3敗。単純に戦力的には向こうが上でしたよ。ですからワシ、昇格のプレッシャーは感じていませんでしたね」(石崎信弘)

「ウチ(FC東京)は1年で(J1に)上がりたいという思いは強くありました。もうすぐできる東京スタジアムをJ1で迎えたいというのもありましたし、社員選手が半分だったとはいえ、J1でもできるような力のある選手がけっこういましたから。中央大で教えていた、奥原(崇)、新條(宏喜)、鈴木(敬之)を引っ張ってきたのもそのためでした」(大熊清)

 第1クールを終えると新潟が失速。その後は大分が5節にわたり首位に躍り出たが、第3クール以降は川崎とFC東京の首位争いが続いた。結局、体勢を建て直した川崎が、残り2節を残して昇格の条件となる2位以内を確定(その後、優勝が決定)。FC東京は第29節から4連敗を喫し、Vゴール勝利を含む5連勝で猛チャージをかけてきた大分に第35節で抜かれてしまう。2位大分(勝ち点62)、そして3位FC東京(同61)。昇格の可能性は、この2チームに絞られた。そして最終節、大分はホームでモンテディオ山形と、FC東京はアウェーで新潟と対戦。11月21日13時、各会場同時にキックオフを迎えた。

「人生で最も長い30分」と古巣への複雑な思い

最終節までもつれ込んだ99シーズンはFC東京が悲願のJ1昇格を果たした 【(C)J.LEAGUE】

 先にゲームが動いたのは、新潟市陸上競技場だった。前半31分、加賀見健介のゴールでFC東京が先制する。

「(佐藤)由紀彦が右にいて、あいつにしては珍しく、ターンをして左足から(クロスを)入れたんです。それを加賀見がきっちり決めてくれました。ただ追加点については、それほど積極的には取りにいかなかったですね。最低限のバランスを保ちながら、そのまま1−0以上で終わらせることを考えました。早く終わらないかなあと(笑)」(大熊)

 1万5702人もの観客を集めた、大分市営陸上競技場のスタンドが沸いたのは後半13分。大分はコーナーキックから、味方のシュートがバーに嫌われたところをウィルが頭で押し込んで先制する。ところが44分、山形にFKを直接決められて同点に追いかれてしまう。

「吉田達磨にやられました。でも延長Vゴール(の可能性)があったから、そんなに慌てなかったですね。延長前半(2分)には、向こうに退場者が出て10人になっていたし。(裏の試合の)結果は知っていました。フロントに教えてもらったのかな? よく覚えてないけれど、少なくともウチは偵察を出すほどスタッフはいませんでした」(石崎)

 その頃、新潟ではFC東京が1−0で勝利していた。だが現代のように、スマホで裏の試合の結果を確認することはできない(携帯サッカーサイトもなかった)。とりあえず選手をロッカールームに待機させ、大熊は大分からもたらされる吉報を待った。

「新潟の監督だった永井(良和)さんが『どうなった、どうなった?』って聞いてくるんだよね。あの人、高校(浦和南)の先輩だから。そのうち、山形がもう1人退場になって9人になったって知らせが来たんです。あとで誤報と分かったんだけれど、その時は『これは苦しいなあ』と。人生で最も長い30分でしたよ」(大熊)

 延長Vゴールで勝ち越せば大分、このまま1−1でドローに終わればFC東京。昇格の行方は、最後まで余談を許さない状況が続いた。そして、30分が経過──。

「サポーターが喜んでいる姿を見て、それで大分が引き分けたことを知りました。彼らのほうが情報は早いですからね。そしたら選手たちがゴール裏に駆け寄って、サポーターもピッチに入ってしまって(苦笑)。幸い、新潟さんは許してくれましたけど」(大熊)

「(昇格を逃して)落ち込みはしなかったけれど、相手が古巣の山形だったのは複雑でしたね。FKを決めた達磨はワシとは入れ違いだったけれど、京都(パープルサンガ=当時)をクビになって採用したのはワシですから。何の因果かね」(石崎)

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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