1999年 J2元年の劇的な最終節<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

あらためて考える、J2創設の歴史的意義

J2のオリジナル10から初めて優勝チームが生まれた今シーズン。J2もまた、Jリーグの発展ぶりを示す重要な指針だ 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 かくしてJ2元年のシーズンは、劇的な幕切れの中でFC東京がJ1昇格を決めた。その後、大熊は01年までFC東京で指揮を執り、翌02年からはJFAに転籍してU−20日本代表監督やA代表のコーチを歴任した。10年には、J2降格圏内に低迷するFC東京の監督に再び就任。結局、残留とはならなかったものの、引き続きチームを率いて1年でのJ1復帰を果たした。12シーズンぶりに経験したJ2について、どのような変化があったのかと尋ねると、大熊は実感を込めてこう語ってくれた。

「確かに11年のJ2は、難しさがありましたね。ガッチリ守備を固めてくるチームが増えて、選手のクオリティーも指導者の経験値も間違いなく上がっていました。ただ、99年のシーズンが簡単だったかというと、決してそんなことはなかったです。勝負の難しさ自体は、あまり変わっていないと思いますね」

 一方の石崎は、翌00年も浦和レッズと最終節までJ1昇格争いを演じた。今度は先に大分が勝利していたのだが、浦和に延長Vゴールが生まれる瞬間をテレビで見て愕然としたという。結局、01年の5月に大分の監督を解任。続いて率いることになった川崎(01年にJ2降格)では、2年半をかけて攻撃的なチームを作ったものの、やはりJ1昇格はならなかった。石崎が「昇格請負人」の評価を得るのは、柏レイソルをJ1に引き上げた06年以降のこと。現在まで7つのJクラブを率い、そのうち3回の昇格を果たしているが、最も思い入れがあったのが03年の川崎だったという。

「あの年の川崎、ワシは好きじゃったんよ。イメージはスペインで02年に見たベティス。ああいう、自分たちでアクションを起こしてボールを奪うサッカーがやりたくてね。そういうチームを作ることができたんだけれど、その年もやっぱり昇格できんかった。結局、関塚(隆)が監督になった次の年(04年)に上がったけれど、ワシがしっかりベースを作っておいたからね。『そりゃ、上がるわな』と思ったわけですよ(笑)」

 最後に、99年のJ2創設の歴史的意義について、あらためて考えてみたい。前編の冒頭で述べたとおり、日本のプロサッカーリーグが昇降格のある欧州スタンダードを選んだという意味で、J2が与えたインパクトは大きかった。奇しくもこの年、浦和の降格が決まったこともまた、J2が注目される契機となった(もちろんネガティブな意味で)。しかし一方で、それまでプロスポーツとは縁がなかった地方都市にも、Jリーグが身近に感じられるようになったのが、J2創設によって実現したという事実も忘れてはならない。全国津々浦々の「Jリーグがある風景」が生まれる起点となったのが、この1999年という年であった。

 99年に10チームでスタートしたJ2は、12年には22チームまで増え、そして17年にはJ2のオリジナル10から初めてJ1優勝チームが生まれた。J2もまた、Jリーグの発展ぶりを示す重要な指針である。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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