松井大輔、欧州再挑戦で直面する現実 「悩み、苦しみながら、一歩ずつ前に」

元川悦子

不完全燃焼感の強いハーフシーズン

8月にポーランド2部のオドラ・オポーレへ新天地を求めた松井大輔。前半戦はなかなか出場機会を得ることができなかった 【六川則夫】

 快晴の空に冷たい風が吹きつけるポーランド南部の都市・オポーレのスタディオン・ミエジェスキ。この地で11月4日に行われたポーランド2部のGKSティヒ戦で、ホームのオドラ・オポーレは4試合ぶりの勝利を飾った。前半のうちにセットプレーから1点を先制。後半に入って相手の猛攻を受けたが、耐え忍んで完封し、辛くも1−0で逃げ切った。そんなチームメートの一挙手一投足を背番号22をつける日本人MF松井大輔はベンチからじっと見続けていた。

「このチームは1−0で勝っているケースが多いんです。基本的に守ってカウンターやセットプレーでチャンスをうかがうスタイルですね。今回は早い時間に点が取れたけれど、ここまでは相手が攻め疲れしてきた終盤にゴールして勝つパターンが多かった。得点はPKとかセットプレーがほとんど。セットプレーの練習はほとんどしないのに、なぜか決まる(笑)。グラウンドに慣れているから、選手たちもどのタイミングで入ってくればいいか分かっているのもあるんだと思います」

 過去2年間に4部から3部、2部へと急激にステップアップしてきたチームだけに、オドラ・オポーレは「徹底的に守って勝ち点1でも多く手にして、2部での地盤をしっかりと築きたい」という考え方で戦っているようだ。

 こうした中、松井は攻撃に変化やリズムをもたらす存在となるべく、シーズン序盤の8月からチームに加入したが、ここまで出場4試合(うち先発2試合)のみ。9月30日のクロブリー・グロゴフ戦を最後にピッチから遠ざかっている。このティヒ戦後も3試合のリーグ戦があったが、出番は訪れずじまい。チームは前半戦を2位と想像以上の成果を残したが、ベテランMFにとっては非常に不完全燃焼感の強いハーフシーズンになってしまった。

デビュー戦での大きなダメージ

レヒア・グダニスク時代は「選手個々のレベルがもっと高かった」と松井。2部では守備や球際、1対1で戦うところがより重視されるという 【Getty Images】

 2004年夏に赴いたフランス2部(当時)のル・マンを皮切りに、同1部のサンテティエンヌ、グルノーブル、ロシア1部のトム・トムスク、フランス1部のディジョン、ブルガリア1部のスラビア・ソフィア、ポーランド1部のレヒア・グダニスクと4カ国7クラブを渡り歩き、14年からジュビロ磐田でプレーしていた松井。その彼が欧州再挑戦に踏み切ったのは今年8月のことだった。

 今季J1で7試合出場と思うようにプレー機会に恵まれず、「36でなかなか取ってくれるチームもないと思うし、オファーがあること自体、光栄なこと。ル・マンに行った時も、ジュビロに戻った時も2部だったので、ポーランド2部で初心に戻れると思う」と原点回帰を図るつもりで、欧州での再挑戦に踏み切った。

 単身赴いたオドラ・オポーレ側も松井に期待を寄せ、ミロスラフ・スメア監督も合流して4回練習しただけで、8月12日のミエジ・レグニツァ戦の後半25分からピッチに送り出した。だが、新たな環境に適応し切れていない背番号22は中盤でボールを奪われ、そのミスがPKにつながるという不運に見舞われる。それが大きなダメージになったと本人も認める。

「自分がボールをかっさらわれてPKになったことで、監督が使いにくくなったのはあるかもしれないですね。『海外は最初が肝心』という鉄則があるのに、3年間日本にいてそれを忘れていたというか、ボーっと入ってしまったところがあった。これを境に、監督から『球際で戦っていない』『走っていない』と繰り返し言われるようになりました。

 エクストラクラサ(1部リーグ)のグダニスクにいた時は、選手個々のレベルがもっと高かったし、ボールをつなぐスタイルだったけれど、今は2部の技術的に低い選手の中でやらないといけない。その分、守備や球際、1対1で戦うところがより重視される。正直、難しさを感じますね」

 実のところ、クラブ側には別の思惑もあったようだ。彼らの現スタジアムは約5000人収容の老朽化の著しい施設で、天然芝ではあるもののピッチ状態は劣悪だ。そこで市内に新スタジアム建設を計画中で、オポーレ市に対し、積極的に支援を働き掛けている。その動きを加速させるべく、松井デビュー戦に併せて関係者を招き、「元日本代表選手が加入した」と大々的に宣伝していたというのだ。

 そんな事情もあって、1つのミスのマイナスイメージがより大きくなった部分もあるだろう。外国人枠が1つしかないポーランドにおいて、外国人選手というのはピッチ内外で影響力が大きい。松井自身もその事実を痛感させられたのではないだろうか。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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