ジャマイカで見た“世界最速の男”の起源 ウサイン・ボルト伝説の序章と栄光(前編)

山口大介

“世界最速の男”ボルトの起源をたどる 【写真:ロイター/アフロ】

 陸上の世界選手権が4日、イギリス・ロンドンで開幕する。今大会を「ラストラン」と公言して臨むのが、“世界最速の男”ウサイン・ボルト(ジャマイカ)だ。頂点に上り詰めた2008年の北京五輪から数えて10年、陸上界のみならずスポーツ界の顔でありつづけた希代のスプリンターは、いかにして生まれ、伝説のアスリートに昇華していったのか。カリブの島の小さな村から始まった唯一無二のストーリー――。

父親譲りの恵まれた体躯 大自然の中で育った

ボルト実家前の風景(2012年3月撮影) 【写真:山口大介】

 5年前の3月、12年ロンドン五輪を5カ月後に控えたジャマイカを訪れた。

 秋田県ほどの面積、京都府ほどの人口しかない小国ながら、08年北京五輪で陸上短距離種目だけで6つの「金」を含む11のメダル(※)を獲得した。米国からスプリント王国の盟主の座を奪った秘密はどこにあるのか、それを探る旅だった。

※17年1月、男子4×100メートルリレーの金メダルは、ネスタ・カーターのドーピング再検査で陽性が出たため剥奪となっている

 島の南東部に位置する首都キングストンから車に揺られること4時間。市街地、海岸線、舗装されていない山道と目まぐるしく風景を変えた道中の果てに、ボルト生誕の地はあった。

ボルト実家(2012年3月撮影) 【写真:山口大介】

 トレローニー教区シャーウッド・コンテント村。一帯には森林が生い茂り、かつて農園主に抵抗した黒人奴隷たちが隠れた洞窟も点在するという。街灯や道路標識もなければ、まだ上下水道も完備していないとの話だった。村の様子について、ボルト自身も「俺の故郷がいかに隔絶されていたか」と自伝に書いている。

 ボルトはキングストンに移ったが、両親は今もここで暮らす。父ウェズリー氏に会って納得したことがあった。ボルトの恵まれた体躯(たいく)は父親譲りなのだと。息子よりもがっちりした体格の父が、少年時代の息子の思い出を語ってくれた。

ボルトの父ウェズリー・ボルトさん(2012年3月撮影) 【写真:山口大介】

「ひと言で言えばハイパーアクティブ。とにかくじっとしていられない子だった。あまりに落ち着きがないので、精神に異常があるんじゃないかと思って医者に診てもらったくらいだ」

 スタート前からカメラ目線と決めポーズで盛り上げ、静寂と威厳に支配されていた100メートルの光景を一変させた底抜けに明るい男は、幼少期からその片りんをのぞかせていたようだ。家の玄関から一歩外に出れば、そこは見渡す限り手つかずの大自然。その中をボルト少年は走り回って育った。

子供の頃は練習よりもゲーム!?

ボルトの母校ウィリアムニブ高校 【写真:山口大介】

 当時から足は速かった。ジャマイカで人気の高いクリケットも大好きだったが、奨学金のもらえる特待生として地元のウイリアムニブ高校に入るとき、陸上一本に絞った。高校は実家から10キロ以上離れていた。父によると、ボルトは実家から2キロほど歩いた交差路で友人と待ち合わせ、タクシーをシェアして学校に通ったという。

 農業や小さな食品雑貨店で生計を立てていたボルト家は決して裕福ではなかった。「シューズとか大会に遠征するのにお金を工面するのはとても大変だったけど、今となってはその甲斐があったというものだよ」と父は振り返る。

ウィリアムニブ高校の小さな校庭 【写真:山口大介】

 ただ、最初は親の心子知らずだったらしい。練習をさぼって街中のゲームセンターに繰り出すこともしばしばだった。父いわく「練習熱心なんて、とんでもない。もしウサイン(現地での発音はユーセインに近い)が練習をさぼったら、先生から私に連絡が来るようになっていた。帰ったらお仕置きだ。ジャマイカの父親は強いからね。あいつは友達にビデオゲームに誘われると、そっちに行ってしまう。とにかくゲームが好きなんだ」。学校のコーチらも気まぐれな少年と向き合うのは実に根気のいる作業だっただろう。

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