2010年 イレブンミリオンの遺産 シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
最終節の西京極で見た光景
岩貞和明(右)と足立。「特命PR部女子マネージャー」は手探り状態からスタートした 【宇都宮徹壱】
「当時はまず『女性をターゲットにしよう』というのがあったのと、芸能人のブログが話題になっていた時期でもありました。ですから、自ら発信できる女性タレントということで、木下さんになったという経緯だったんですが、スケジュール的にも厳しくてスタジアムには行けなかったんです。であれば『稼動できる女性タレントがもう1人いてもいいよね』ということで、ホリプロさんから推薦されたのが足立さんでした」
女子マネの設定やコンセプトに関しては、足立自身はもちろん、岩貞も「あまり深くは考えていなかった」。はっきりいって手探り状態からのスタートであったが、岩貞は一貫して「サッカーに関する難しい知識はあえて教えなかった」という。むしろサッカーにまったく興味がなかった現役女子高生が、いかにしてサッカーの魅力に触れてJリーグを好きになっていくのか、そのプロセスに力点が置かれた。もともと好奇心旺盛で勉強熱心な足立には、そうした自然なアプローチで正解だったようにも思える。
女子マネ就任1年目の最終節、足立は西京極で生涯忘れることのない光景に遭遇する 【(C)J.LEAGUE】
「試合後は全クラブを回ったという達成感よりも、両チームが降格したショックのほうが大きかったですね。みんな悔しいはずなのに、FC東京のサポーターが『前を向いて選手たちを迎えよう』と言っていたんです。『サッカーって、なんてすごいスポーツなんだろう』と、あの時に思いましたね。それまで昇格とか降格って、ピンとこないところがあったけれど、1試合1試合の重みというものを、あの時に知ることができました」
イレブンミリオンをどう評価すべきか?
女子マネ1年目の頃、足立の一番の楽しみはスタジアムグルメだったという。スタジアムグルメが充実するようになったのはイレブンミリオンの成果のひとつだ 【(C)J.LEAGUE】
「自分の力不足は認めないといかんですな。各クラブの社長さんをはじめ、皆さんが一生懸命やってくれたんだけれども、やっぱり(1100万人には)届かなかったと。まあ、ざっくばらんに言って、最初から厳しいと思っていましたよ。でも、これをすることによって気付くことがたくさんあるはずだと。お客さんにしっかり向き合うことで、いろいろな策を講じていかなあかんと。(集客アップは)その積み重ねでしかないんですよ」
イレブンミリオンの終了と同時に、「特命PR部長」も予定通りの1年で任期満了となる。そうした中、「稼動できる女性タレント」ということで追加招集された足立が、結果としてサッカーファンとメディアに広く親しまれ、翌シーズンも引き続き女子マネとして継続するようになったのは、歴史の副産物と言えよう。足立の女子マネとしての仕事は13年まで3シーズン続き、「卒業」後はJリーグ名誉女子マネージャーとなった。その後の彼女の活躍については、ここに書くまでもないだろう。
結局のところ、イレブンミリオンは失敗だったのだろうか? 数値目標が達成できなかった、という点においては確かに失敗であった。とはいえ、プロジェクトそのものが無意味だったかと問われれば、決してそうではなかった。なぜならイレブンミリオンの4シーズンを通して、各Jクラブがファンサービスの重要性に気付き、さまざまに工夫をこらした施策が行われたからだ。最も分かりやすい例が試合会場での食事。サッカーをまったく知らなかった女子マネ1年目の頃、足立の一番の楽しみはスタジアムグルメだったという。
「日本全国各地にクラブがあって、ホームスタジアムで各地の名物が食べられるんですよ。高校生だった時は、特に食べることが大事でしたから『あそこに行ったら、あれが食べたい!』みたいな感じで、毎週末が楽しみでしたね(笑)」
足立は知る由もなかったが、各スタジアムのグルメが充実するようになったのはイレブンミリオンの成果のひとつであった。また、ホームゲームでの各種イベントで有名な川崎フロンターレが、アーセナルでの事例を参考に『算数ドリル』を作ったのも、イレブンミリオンでの海外研修がきっかけである。さらに言えば、Jリーグにスタジアムプロジェクトが立ち上がったのも、集客において「最後はどうしてもハードの問題にぶち当たる」というイレブンミリオンでの結論が大きく影響していた(当連載の「2016年」の稿を参照のこと)。イレブンミリオンの遺産は、今もJリーグの至るところで生き続けている。
<この稿、了。文中敬称略>