「棚ぼた」Jクラブが真の市民クラブに J2・J3漫遊記 湘南ベルマーレ後編
なぜベルマーレ「平塚」だったのか?
ホーム開幕戦の試合後に湘南サポーターが掲げた横断幕。彼らにとってフジタは特別な存在であった 【宇都宮徹壱】
神奈川県のほぼ中央に位置する平塚市は、2000年代初頭に持ち上がった「湘南市構想」の中心となると目されていたが、政令市を目指した合併話はご破算となり、今も人口26万人弱の地方都市のままとなっている。海岸線が限られているためリゾート地とは言い難く、市内唯一のJR駅である平塚駅も特急は停まらないため、全国的な知名度は今ひとつ。そんな平塚が一躍メジャーな存在となったのは、Jリーグ効果のたまものでもある。とはいえ、平塚市が「Jクラブのある街」となったのは、いくつかの偶然が重なってのものであった──。そう語るのは、湘南の眞壁潔会長である。
「かつてベルマーレの練習場があった大神という地域は、栃木からやって来た藤和不動産サッカー部がフジタ工業サッカー部になった時(75年)、相模川の河川敷にあるグラウンドを整備したのが始まりなんですよね。当時はみんな会社員だったから、小田急線に乗って会社からこっちに来ていたんです。ただ、これが歴史の偶然というやつで、もしもグラウンドが300メートルくらい上流に作られていたら、そこはもう厚木市なんですよ。だからベルマーレ『厚木』になっていた可能性も十分にあったわけです」
フジタの練習場が「たまたま」平塚市内にあったこと、そして改修すれば何とかJリーグを開催できそうな平塚競技場(現Shonan BMW スタジアム平塚)があったこと。そうした偶然が重なって、平塚市は「Jクラブのある街」となった。逆に言えば、平塚市民が何かしらの運動を起こしてJクラブを立ち上げたわけではない。しかも、平塚競技場はフジタのホームグラウンドではなかったし、練習を終えた選手たちは厚木インターを経由して帰ってしまうので平塚の中心街には寄り付かない。「ですから平塚からすると、棚ぼた的にJクラブがやって来たわけです」という眞壁の言葉も、なるほどとうなずける。
「もしフリューゲルスとウチの順序が逆だったら」
湘南の眞壁潔会長。新会社設立後、育成クラブへの方向展開とホームタウンの広域化を実現させた 【宇都宮徹壱】
奇しくも99年は、フジタが業績不振によってクラブ運営から撤退し、ベルマーレ平塚が市民クラブへの道を踏み出すことになった年。そして彼らは、企業お抱えのクラブから地域に根ざした市民クラブへと転身した、初めてのJクラブとなった。とはいえ、彼らは自ら好んで「Jリーグの理念」に邁進していったわけではない。この年の元日、天皇杯を制した横浜フリューゲルスが消滅している。この事件が象徴するように、親企業がJクラブを丸抱えするのが当たり前だった時代は、明らかに終わりを告げていた。この時代の状況について、当時クラブ存続に奔走していた眞壁はこう振り返る。
「フリューゲルスの吸収合併が発表されて数カ月後、フジタさんの関係者がJリーグの川淵さん(三郎=当時チェアマン)のところに行っているんですよ。『ウチも無理です』って。Jリーグとしても、第2のフリューゲルスを出すわけにはいかないから、そこで出した結論は『もう1年頑張れ』と。呂比須ワグナー、洪明甫(ホン・ミョンボ)、小島伸幸といったスター選手を相次いで放出して、サテライトの選手中心で何とか99年のシーズンを乗り切った。それにプラスして、撤退にあたってフジタは地元から集めた資本金を残してくれていたんですね。これが大きかった」
「もしフリューゲルスとウチの順序が逆だったら、ウチは間違いなく潰れていたし、残された資本金がなかったら、新会社で再スタートを切ることもなかったかもしれない」──そう、眞壁は回想する。加えて、クラブ経営に参画することになった眞壁が強く主張したのが、ホームタウンの広域化。Jリーグ側はやや難色を示したものの、「平塚だけでは続けられません!」と訴えたことで受け入れられた。かくして00年、ベルマーレ平塚から「湘南ベルマーレ」にチーム名は変更され、ホームタウンは最終的に7市3町を数えるまでになった。のちにザスパ草津が「群馬」を、コンサドーレ札幌が「北海道」を名乗ることになるが、先鞭をつけたのは湘南である。