2006年 オシムがJに遺したもの<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

迎える側、送り出す側、それぞれの思い

オシムが代表監督に就任した時、千葉のGMを務めていた祖母井はグルノーブルへ行くことが決まっていた 【宇都宮徹壱】

 日本代表監督イビチャ・オシムの通訳となった千田善。彼の本来の肩書は「国際政治ジャーナリスト」である。ベオグラードでの語学留学経験があり、長年にわたり旧ユーゴスラビア紛争の取材も続けてきた、いわば旧ユーゴのエキスパート。一方で、自身もプレーヤー経験のあるフットボールファンでもあり、日本代表の国際試合では旧ユーゴ系の監督会見で通訳を務めることも少なくなかった。よって、かねてより親交があった私から見ても、千田が「オシムの通訳」という重責を担うことは、ごく自然な流れのように感じられたのだが──。

「オシムさんとは、(ジェフユナイテッド)千葉の監督時代にテレビの仕事でお会いしたことがありましたが、いざ通訳ということになると、やっぱり緊張しましたね。『よろしく』とは言っても、向こうはこちらを探っている感じでしたから。最初は打ち解けて話す感じではなかったです。ただ(日本代表監督となって)最初のトリニダード・トバコ戦の直前だったかな。2人きりになった時に『僕はあなたとJFA(日本サッカー協会)との中間ではなく、あなたの側に立って仕事をしますから』と宣言したんです。すると、オシムさんは『ほう、そうか』という表情を見せてくれました。ちょっと驚きながらも喜んでいたような気がします(笑)」

 一方、オシムを送り出す側にも、いろいろと逡巡(しゅんじゅん)があったようだ。千葉のGMを務めていた祖母井(うばがい)秀隆は、この年の1月にフランスのグルノーブル・フット38のGMへのオファーを受けており、同じタイミングで自身もフランスに渡ることが決まっていた。それだけに、身近でオシムをフォローできないことへの後ろめたさも感じていたようだ。逆に通訳の間瀬は、自分が代表でもオシムの通訳となるのではないかという密やかな期待もあったという。

「(代表監督就任にあたって)オシムさんが重視したのは、お金ではなくスタッフだったと思います。実は僕も(スタッフとして)声がかかったんです。奥さんのアシマさんからも『ウチのダンナをひとりで行かせるの?』と言われていました(苦笑)。ただ、グルノーブルの件はすぐにオシムさんにはお伝えしていて、その時はとても喜んでいただきました。それもあって、オシムさんは代表監督のオファーがあったことを僕に伝えなかったのかもしれない。結局、ジェフから連れていったスタッフは、小倉(勉)コーチや前田(弘)トレーナーくらいですかね。間瀬は残しましたけれど」(祖母井)

間瀬(左)は千葉に残り、アマルの通訳兼任でコーチを務めることになる 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

「岐阜のキャンプが終わったとき、『これが最後だから』と選手とスタッフみんなで記念撮影をしました。でもオシムさんは『俺はここから去る人間だから』と言って、集合写真からそっと外れたんです。その時、オシムさんがこっちを向いて『お前も外れろ』というジェスチャーをしたんですね。それを見て『あ、僕も通訳として(代表に)連れていってくれるのかな』と(笑)。でも結局、僕はアマル(・オシム=イビチャの長男で当時は千葉のコーチ、後に監督)の通訳としてジェフに残ることになりました。ちょっと残念な思いもありましたけれど、その時は僕も通訳兼任でコーチになろうと思っていた時期だったので。まあ結果として、あれで良かったと思っています」(間瀬)

千葉比率が高くなった理由と南アフリカ大会への布石

オシムの通訳となったことで、それまで大学で国際政治学を教えていた千田の生活は一変した 【写真:アフロスポーツ】

 オシムの通訳となったことで、それまで大学で国際政治学を教えていた千田の生活は一変する。オシムがそうであるように、通訳もまた「すべてをサッカーにささげる」生活へと突入していった。

「オシムさんは選手たちの現状を把握するために、週末は1日2試合、多いときは3試合ほど、Jリーグの視察に行っていました。水曜の試合もチェックして、それ以外にも定例ミーティングが週2回。金曜に視察する試合を確認して、月曜に代表候補の選手の状況をチェックする。代表戦が近づいてくると、さらにミーティングが増えました。僕は頑張って週1回は休むようにしていましたけれど、うっかり付き合っていると休みなしのスケジュール。それだけオシムさんは、良いチームを作ろうとしていたということです」

オシム体制初期の日本代表で特徴的だったのが、千葉の選手たちを多数招集したこと 【写真:アフロスポーツ】

 オシム体制初期の日本代表で特徴的だったのが、千葉の選手たちを多数招集したことである。阿部勇樹や巻誠一郎はジーコ時代から招集されていたが、山岸智、羽生直剛、佐藤勇人、水野晃樹、水本裕貴はいずれもオシム時代から。あまりの千葉比率の高さに「身びいきではないか」という批判もあった。これに関して千田は「自分のやり方を早く浸透させたかったから」とした上で、その舞台裏も明かしてくれた。

「一番の目的は、練習をスムーズに進めるためでした。ジェフの選手が手本を見せて、他の選手に学んでもらう。何色ものビブスを使った練習も、ジェフの選手なら普段からやっているので問題なくこなすことができる。その一方で、ジェフの選手に対しては『自分の身びいきで呼んだと言われるのは嫌だから、お前らもっと頑張れよ』みたいなことは個別に言っていましたね。まあ、確かに2割くらい下駄を履かせていたところはあったかもしれません(笑)。ある選手については『代表だからとビビらずに、自信をもってプレーすれば、もっと良い選手になったのに』という話はしていましたね」

 千葉以外に招集したJクラブ所属の選手で目を引くのが、ガンバ大阪の遠藤保仁と横浜F・マリノスの中澤佑二の招集だ。遠藤は先のワールドカップ(W杯)ドイツ大会で、フィールドプレーヤーとしては唯一出番がなかった選手。そして中澤はドイツ大会終了後、代表引退を宣言していた。しかし2人はオシム体制下で重用され、10年の南アフリカ大会では主力として活躍。その後、遠藤は歴代トップとなる152、中澤は110まで代表キャップ数を伸ばしている。以下、千田の証言。

「オシムさんが遠藤のどこを評価していたかというと、卓越したテクニックと試合を見る大局観。そういう、ジーコが気付かなかったところを見抜いていたと思います。中澤については、ある人を介して『実は招集したいと思っている』ということを伝えて、本人が感動して、代表引退を撤回したそうです。次の年(07年)に中澤が加わると、それまで3バックだったのを4バックにして、フォーメーションの幅ができたし、チーム力も格段にアップした。遠藤の抜てき、そして(田中マルクス)闘莉王とコンビを組むことになる中澤の復帰は、W杯南アフリカ大会での日本代表躍進の核になりましたよね。あれはオシムさんの遺産だったと、僕は今でも思っています」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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