2006年 オシムがJに遺したもの<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

イビチャ・オシムはJリーグに何を遺したのか?

「オシムさんは今でも、Jリーグのことはすごく気にしています」と千田。「ジェフはどうなっているのか」とも聞かれるという 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 07年11月16日、千葉の自宅にて脳梗塞で倒れたことで、オシムの日本での仕事は突然に幕を下ろすこととなった。幸い、一命をとりとめて回復。08年6月にはJFAとのアドバイザリー契約を結んだものの、同年12月に契約満了となり、翌年1月に自宅のあるオーストリアに帰国した。千葉の監督として3年半、日本代表監督として1年半弱――。日本での約5年の仕事は、30年に及ぶ指導歴の6分の1でしかない。それでもオシムは今でも、日本サッカーのことを気にかけていると千田は語る。

「オシムさんは今でも、Jリーグのことはすごく気にしています。浦和レッズの(ミハイロ・)ペトロビッチ監督ともよく電話しているようで、最新のJ1の順位はしっかり把握しています。僕もたまに電話して聞かれるのが『ジェフはどうなっているのか』という話。なかなかJ2から這い上がれない状況を、とても気にしている様子でした。たぶんオシムさんは、J1に復帰するには何が必要かというアイデアは持っていると思いますが、『今の監督に失礼だから言うべきではない』というスタンスですよね」

 オシムが日本代表で、あるいは千葉で果たした役割については、これまでさまざまな議論がし尽くされている。ならば「Jリーグ」に絞って考えた場合はどうだろうか。祖母井は、オシムが持ち込んだサッカーが、Jリーグ全体の活性化につながったと考える。

「オシムさんが求めたのは、最後まで諦めずに走り切って、とにかく守りに入らないサッカーでした。今の日本は、結果第一の安全第一で、とにかくリスクを犯して前へ前へという社会ではない。そのアンチテーゼというわけではないけれど、あの時のジェフのサッカーは、とにかくアグレッシブで見ていて楽しかったですよね。そして対戦相手にしても、ウチ(千葉)と対戦するときはガチンコになるから、知恵を絞って全力でぶつかってくれた。だからJリーグそのものが、とても盛り上がったように思います」

間瀬はオシムがもたらした影響力について「『人とサッカーを近づける』力があること」を挙げる 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 通訳から、のちに監督に転じた間瀬は、自身のキャリアと重ねながら、オシムがもたらした影響力についてこのように分析する。

「あの人の何がすごいって、『人とサッカーを近づける』力があることだと思うんです。たとえばジェフの選手でも、全員がサッカーに対して真剣に向き合っていたかというと、最初は決してそんなことはなかった。でもオシムさんが来たことで、選手はサッカーと真剣に向き合うようになり、チームも結果を出すことで、ファンやサポーターもジェフのサッカーに魅了されるようになった。僕自身、単なる通訳から1人の監督になっていったわけです。多くの日本人にサッカーの魅力を気付かせたこと。それが一番じゃないでしょうか」

 証言者たちの言葉にかぶせる形で、個人的にもうひとつ「任期中のJクラブの監督がJFAに引き抜かれることがなくなった」ことを付け加えたい。14年末、いわゆる「八百長疑惑」によって、当時の日本代表監督ハビエル・アギーレが契約解除となった際、世論は「次期監督にJリーグで結果を残している日本人監督を」という方向に一時的に傾いた。おそらく、この時のJFAでは「千葉の轍は踏むまい」との判断が働いたのだろう。結果、新しい代表監督にオシムと同じボスニア・ヘルツェゴビナ出身のヴァイッド・ハリルホジッチが就任した。Jクラブの自立性を配慮した、この時の判断が吉と出ることを切に期待したい。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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