1994年 現役セレソンの参戦<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
現役セレソンが鹿島にやって来た理由
W杯というテレビの向こう側の世界でプレーしていた選手が、すぐ目の前でゴールを決める――夢のような心持ちだった 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】
当時、サッカー番組の制作の仕事をしていた私は、このゴールをピッチレベルで目撃していた。つい1カ月前まで、W杯というテレビの向こう側の世界でプレーしていたレオナルドが、すぐ目の前で鮮やかなゴールを決めて見せる──。大げさではなく、夢でも見ているかのような心持ちであった。
レオナルドの獲得は、「クラブが今後も生き残っていくには、多少の借金をしてでもブランド力をつけなければならない」という、当時の鈴木昌社長の考えによるものであった。アシスタントコーチだった鈴木満は、選手獲得にはノータッチだったものの、レオナルドの年俸については「120万ドルくらい」と記憶している(当時のレートで約1億2000万円)。選手年俸が高騰する契機となった「ボスマン判決」が下されるのは95年12月のこと。その前年は「これくらいの金額でも日本に来てくれた」(鈴木)のである。もっともレオナルド獲得には「やはりジーコの存在は不可欠だった」と鈴木は付け加える。
レオナルドの獲得には「ジーコの存在は不可欠だった」と鈴木は語る 【宇都宮徹壱】
94年のレオナルド、そして95年のジョルジーニョの加入は、ジーコとは違った意味でチームの意識改革につながった。「今のブラジル人選手と比べても、ひとつひとつの技術のレベルが高かった。しかも練習も手を抜かない。だから日本人選手にも良い影響を与えていました」とは鈴木の証言。しかし、現役セレソンの2枚看板をそろえた鹿島は、なぜかタイトルを手にすることはなかった。94年の2ndステージは12チーム中5位。14チームで行われた95年は、1stステージが8位で2ndステージが6位。成績が振るわなかった原因について、鈴木は「フロントが現場にノータッチだったから」と指摘する。
「当時はサテライトもありましたから、選手とスタッフの総勢が50人以上いたんです。しかも、みんな個人事業主で競争の世界でしたから、毎日のようにあちこちで揉め事が起こるんですね。それなのにフロントは現場任せで、同じ方向性に向かせるという仕事をしていなかった。同じ立場の者同士では、なかなかうまくいきませんでした」
鹿島とJリーグのターニングポイントとなった「96年」
96年はシーズン途中のレオナルドの移籍を乗り越え、鹿島が初タイトルを獲得した 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】
「Jリーグ初年度はジーコもいたし、現場もフロントも必死さと危機感があった。それが薄れてしまったのであれば、元に戻していくしかない。そして、自分が現場とフロントの橋渡しをしながら、クラブ全体を同じ方向にしていく。シーズンの途中にレオの離脱もあって、確かに戦力的には痛かったです。それでも優勝できたのは、レオの不在を補えるだけの組織力ができていたからだと思います。チームで戦ったんじゃない。クラブで戦ったからこそ、96年のタイトルを勝ち取ることができたんです」
鈴木の言葉どおり、1シーズン制でおこなわれた96年は、鹿島が2位の名古屋グランパスエイトを3ポイント差で振り切り、見事にこの年のリーグを制した。のちに19ものタイトルを獲得(17年2月現在)することになる鹿島だが、実はこれが初タイトル。以来20年以上にわたり、強化責任者としての重責を担ってきた鈴木は、「ジーコ・スピリッツ」を歴代の指揮官や選手に伝えながら、クラブのスタイルを確立させてゆく。その後の強豪クラブへのサクセスロードについては、今さら多くを述べるまでもないだろう。
この年にはもうひとりの「大物」が日本を離れ、ヨーロッパに渡った 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】
ところでこの年、もうひとりの「大物」が日本を離れてヨーロッパに渡っていることをご記憶だろうか。低迷していた名古屋を、優勝争いできるまでに育て上げたフランス人の名将、アーセン・ベンゲルだ(96年から現在までアーセナル監督)。「ボスマン判決」以降、世界のフットボールの中心は、日本からヨーロッパへと確実にシフトしていた。96年はそのターニングポイントであり、これ以降は(いくつかの例外を除いて)、ワールドクラスのスター選手や名将がJリーグを目指すことは、ほとんどなくなってしまった。