1994年 現役セレソンの参戦<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

現役セレソンが鹿島にやって来た理由

W杯というテレビの向こう側の世界でプレーしていた選手が、すぐ目の前でゴールを決める――夢のような心持ちだった 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 レオナルドの鹿島アントラーズでのデビューは1994年8月13日。県立カシマサッカースタジアムで開催された2ndステージ第2節、対ヴェルディ川崎戦であった。2−2からPK戦の末に4−5で敗れたこの試合(当時のレギュレーションでは引き分けはなかった)、レオナルドはさっそくゴールを決めている。前半37分、アルシンドからの山なりのパスを受けると、ドリブルで自ら持ち込んで得意の左足でネットを揺さぶった。

 当時、サッカー番組の制作の仕事をしていた私は、このゴールをピッチレベルで目撃していた。つい1カ月前まで、W杯というテレビの向こう側の世界でプレーしていたレオナルドが、すぐ目の前で鮮やかなゴールを決めて見せる──。大げさではなく、夢でも見ているかのような心持ちであった。

 レオナルドの獲得は、「クラブが今後も生き残っていくには、多少の借金をしてでもブランド力をつけなければならない」という、当時の鈴木昌社長の考えによるものであった。アシスタントコーチだった鈴木満は、選手獲得にはノータッチだったものの、レオナルドの年俸については「120万ドルくらい」と記憶している(当時のレートで約1億2000万円)。選手年俸が高騰する契機となった「ボスマン判決」が下されるのは95年12月のこと。その前年は「これくらいの金額でも日本に来てくれた」(鈴木)のである。もっともレオナルド獲得には「やはりジーコの存在は不可欠だった」と鈴木は付け加える。

レオナルドの獲得には「ジーコの存在は不可欠だった」と鈴木は語る 【宇都宮徹壱】

「レオもそうだし、翌年に加入するジョルジーニョもそうだけど、ジーコの前では小僧みたいなものでしたよ(笑)。フラメンゴにいた頃(85−89年)、すでにジーコは30代半ばの大ベテランでしたが、ジョルジもレオも20歳くらい。レオをBチームから引き上げるように進言したのもジーコだったそうです。そんな偉大な先輩から『日本に来てくれ』と言われれば、そりゃあ行きますよ(笑)。ですからレオの移籍は、割とすんなり決まったという印象がありますね」

 94年のレオナルド、そして95年のジョルジーニョの加入は、ジーコとは違った意味でチームの意識改革につながった。「今のブラジル人選手と比べても、ひとつひとつの技術のレベルが高かった。しかも練習も手を抜かない。だから日本人選手にも良い影響を与えていました」とは鈴木の証言。しかし、現役セレソンの2枚看板をそろえた鹿島は、なぜかタイトルを手にすることはなかった。94年の2ndステージは12チーム中5位。14チームで行われた95年は、1stステージが8位で2ndステージが6位。成績が振るわなかった原因について、鈴木は「フロントが現場にノータッチだったから」と指摘する。

「当時はサテライトもありましたから、選手とスタッフの総勢が50人以上いたんです。しかも、みんな個人事業主で競争の世界でしたから、毎日のようにあちこちで揉め事が起こるんですね。それなのにフロントは現場任せで、同じ方向性に向かせるという仕事をしていなかった。同じ立場の者同士では、なかなかうまくいきませんでした」

鹿島とJリーグのターニングポイントとなった「96年」

96年はシーズン途中のレオナルドの移籍を乗り越え、鹿島が初タイトルを獲得した 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 96年、鈴木はクラブの強化責任者に就任する。彼がまず始めたのは、現場を監督任せにするのではなく、むしろより現場にコミットすることであった。当人いわく「毎日、選手やスタッフと一緒でした。グラウンドを出てからも、移動も一緒だし食事も一緒」。それを続けることで鈴木が目指したのが、「クラブの一体感」を持たせることであった。

「Jリーグ初年度はジーコもいたし、現場もフロントも必死さと危機感があった。それが薄れてしまったのであれば、元に戻していくしかない。そして、自分が現場とフロントの橋渡しをしながら、クラブ全体を同じ方向にしていく。シーズンの途中にレオの離脱もあって、確かに戦力的には痛かったです。それでも優勝できたのは、レオの不在を補えるだけの組織力ができていたからだと思います。チームで戦ったんじゃない。クラブで戦ったからこそ、96年のタイトルを勝ち取ることができたんです」

 鈴木の言葉どおり、1シーズン制でおこなわれた96年は、鹿島が2位の名古屋グランパスエイトを3ポイント差で振り切り、見事にこの年のリーグを制した。のちに19ものタイトルを獲得(17年2月現在)することになる鹿島だが、実はこれが初タイトル。以来20年以上にわたり、強化責任者としての重責を担ってきた鈴木は、「ジーコ・スピリッツ」を歴代の指揮官や選手に伝えながら、クラブのスタイルを確立させてゆく。その後の強豪クラブへのサクセスロードについては、今さら多くを述べるまでもないだろう。

この年にはもうひとりの「大物」が日本を離れ、ヨーロッパに渡った 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 むしろここで補足しておきたいのが、この年の「レオの離脱」についてである。フランスの強豪クラブ、PSG(パリ・サンジェルマン)からのオファーを受けて、レオナルドはシーズン途中の7月に後ろ髪を引かれながら鹿島を去っている。当時、鹿島のテクニカルディレクターだったジーコも「彼はまだ若い。本人が希望するなら行かせてあげよう」と、愛弟子を快く送り出したという。その後、レオナルドはPSGを経てACミランでも活躍。ブラジル代表でも一時10番を与えられ、98年のW杯フランス大会では決勝まで全7試合に出場している。

 ところでこの年、もうひとりの「大物」が日本を離れてヨーロッパに渡っていることをご記憶だろうか。低迷していた名古屋を、優勝争いできるまでに育て上げたフランス人の名将、アーセン・ベンゲルだ(96年から現在までアーセナル監督)。「ボスマン判決」以降、世界のフットボールの中心は、日本からヨーロッパへと確実にシフトしていた。96年はそのターニングポイントであり、これ以降は(いくつかの例外を除いて)、ワールドクラスのスター選手や名将がJリーグを目指すことは、ほとんどなくなってしまった。

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著者プロフィール

宇都宮徹壱

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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