1994年 現役セレソンの参戦<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
「日本に居ながらにして、本物を見ることができた」時代
現役引退後、鹿島に戻ってコーチを経て監督に就任。昨年はクラブW杯決勝の大舞台も経験し、日本を代表する名将のひとりとなった 【写真:アフロスポーツ】
石井はその後、古巣の鹿島に戻ってユースのコーチ、サテライトの監督、そしてトップチームのコーチを経て、15年7月より監督に就任。これまでナビスコカップ(15年)、Jリーグ、天皇杯(いずれも16年)で優勝し、クラブW杯決勝という大舞台も経験したことで、今では日本を代表する名将のひとりとなった。そんな彼も、自身の現役時代を振り返る時は、いつも以上に謙虚な姿勢を崩そうとしない。
「僕はもともと、そんなにサッカーが上手じゃなかったので、まずプロになれたことに幸せを感じています。しかもタイトルを獲れるチームでやれたこと、そしてジーコをはじめ、レオナルド、ジョルジーニョ、ビスマルクといった素晴らしい選手たちと一緒にプレーできたことで、技術も上がりましたしサッカー観も変わりました。あの時代だったからこそ、僕はプロのサッカー選手になれたし、あの時代だったからこそ、世界レベルの選手と同じピッチに立つことができた。本当に幸せな人間だと思いますよ」
20年以上にわたって鹿島を支え続けてきた鈴木は、当時を「日本に居ながらにして、本物を見ることができた」時代と総括する 【写真:水谷章人/アフロ】
「日本に居ながらにして、本物を見ることができたし、本物とは何かを知ることができた。そのことが、僕らにとっての財産になりましたよね。今でもよく覚えているのが、国立でやった(横浜)フリューゲルス戦(96年第15節)。ウチにはレオナルド、ジョルジーニョ、マジーニョ。向こうには、ジーニョ、エバイール。国内リーグとは思えないくらい、めちゃくちゃレベルが高かったですよ。そういう試合を国内で見られたのは、日本サッカー全体にとっても財産だったんじゃないですかね」
思えば当時、日本はまだW杯出場を果たしていなかった。ヨーロッパでプレーしていた日本人選手も、ジェノアの三浦知良ただひとり。確かに世界は、今よりもうんと遠かった。しかし一方で、Jリーグには綺羅星のような世界レベルのタレントが集まり、クオリティーの高いプレーを披露していたのである。「あの時代だったからこそ、世界レベルの選手と同じピッチに立つことができた」という、石井の言葉が重く響く。とりわけ、大物外国人が相次いで来日した94年という年は、選手にとってもファンにとっても、今では考えられないくらい「夢多き時代」であった。
<この稿、了。文中敬称略>