1994年 現役セレソンの参戦<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

「日本に居ながらにして、本物を見ることができた」時代

現役引退後、鹿島に戻ってコーチを経て監督に就任。昨年はクラブW杯決勝の大舞台も経験し、日本を代表する名将のひとりとなった 【写真:アフロスポーツ】

 鹿島が初タイトルを獲得した96年、それまでキャプテンとしてチームを支えてきた石井のリーグ戦出場数は、わずか1試合にとどまっている。続く97年は11試合に出場しているが、もはや主力とは言い難い立場になっていた。98年、ついに石井はアビスパ福岡への移籍を決断。開幕戦にDFとしてスタメン出場したものの、後半24分に2枚目のイエローカードを受けて退場となる。その直後、前十字じん帯を損傷して半年後に復帰するが、ついに出番を与えられないまま31歳で現役を終えることとなった。余談ながら、石井の最後の公式戦は、くしくもアウェーの鹿島戦。「引退するなら鹿島で」という思いは、何とも残念な形で実現することとなった。

 石井はその後、古巣の鹿島に戻ってユースのコーチ、サテライトの監督、そしてトップチームのコーチを経て、15年7月より監督に就任。これまでナビスコカップ(15年)、Jリーグ、天皇杯(いずれも16年)で優勝し、クラブW杯決勝という大舞台も経験したことで、今では日本を代表する名将のひとりとなった。そんな彼も、自身の現役時代を振り返る時は、いつも以上に謙虚な姿勢を崩そうとしない。

「僕はもともと、そんなにサッカーが上手じゃなかったので、まずプロになれたことに幸せを感じています。しかもタイトルを獲れるチームでやれたこと、そしてジーコをはじめ、レオナルド、ジョルジーニョ、ビスマルクといった素晴らしい選手たちと一緒にプレーできたことで、技術も上がりましたしサッカー観も変わりました。あの時代だったからこそ、僕はプロのサッカー選手になれたし、あの時代だったからこそ、世界レベルの選手と同じピッチに立つことができた。本当に幸せな人間だと思いますよ」

20年以上にわたって鹿島を支え続けてきた鈴木は、当時を「日本に居ながらにして、本物を見ることができた」時代と総括する 【写真:水谷章人/アフロ】

 一方、20年以上にわたって「強い鹿島」を支え続けてきた鈴木は、大物外国人選手が相次いで来日した時代を、このように総括する。

「日本に居ながらにして、本物を見ることができたし、本物とは何かを知ることができた。そのことが、僕らにとっての財産になりましたよね。今でもよく覚えているのが、国立でやった(横浜)フリューゲルス戦(96年第15節)。ウチにはレオナルド、ジョルジーニョ、マジーニョ。向こうには、ジーニョ、エバイール。国内リーグとは思えないくらい、めちゃくちゃレベルが高かったですよ。そういう試合を国内で見られたのは、日本サッカー全体にとっても財産だったんじゃないですかね」

 思えば当時、日本はまだW杯出場を果たしていなかった。ヨーロッパでプレーしていた日本人選手も、ジェノアの三浦知良ただひとり。確かに世界は、今よりもうんと遠かった。しかし一方で、Jリーグには綺羅星のような世界レベルのタレントが集まり、クオリティーの高いプレーを披露していたのである。「あの時代だったからこそ、世界レベルの選手と同じピッチに立つことができた」という、石井の言葉が重く響く。とりわけ、大物外国人が相次いで来日した94年という年は、選手にとってもファンにとっても、今では考えられないくらい「夢多き時代」であった。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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