日本一に輝いた泣き虫のエース・高橋壱晟 青森山田で開花した得点力でプロの世界へ

平野貴也

全試合ゴールで青森山田の悲願達成の原動力に

初戦となった2回戦から決勝まで、5試合すべてでゴールを挙げた高橋(左)は、悲願の初優勝に貢献した 【写真:田村翔/アフロスポーツ】

 泣き虫のエースが、ついに日本一に輝いた。

 第95回全国高校サッカー選手権大会は9日に埼玉スタジアム2002で決勝戦を行い、青森山田高校(青森)が5−0で前橋育英高校(群馬)を下して初優勝を飾った。歓喜の輪の中に、殊勲のエースがいた。MF高橋壱晟だ。初戦となった2回戦から決勝まで、5試合すべてでゴールを挙げ、悲願達成の原動力となった。

 決勝では、ピンチの方が多かった前半の23分に右からのクロスを受け、左足でボレーシュートをたたき込んで先制点をマーク。チームが落ち着きを取り戻し、試合を優位に進めるきっかけを作った。「本当は、相手の前に入ってヘディングをするのが理想でしたけれど、少し遅れたので、相手がヘディングでクリアするのをしっかりと見て、ポジションを取って、あとは抑えて打つことだけを考えました」(高橋)という冷静な判断で通算5得点目を奪った。

 この時点では、単独の得点王だった。ところが、後半に入るとFW鳴海彰人が2ゴールを決める。チームの一員として喜んだ高橋だが、得点数は追い抜かれてしまった。試合後、高橋は「昨日(鳴海と)1点ずつ取って2人で得点王になろうって話していたんですけれど……。もう1点欲しかったですが、点差が開いて前に行く必要がなくなったので。いいですよ、チームが勝ったので」と隣で取材を受けていた鳴海の方を向いて、苦笑いを浮かべた。

 全試合での得点は、高校で殻を破って身に付けた攻撃力の証明だ。そして、点差に余裕があった終盤でも我欲は出さず、勝利を優先して得点王になり損ねた部分は、幼い頃からの高橋の性格を表しているようだった。

目立つタイプではなかった中高時代

高橋は元から基礎技術は高く、真面目な選手だったものの、小中時代は決して目立つタイプではなかった(写真は左から小学校時代、中学時代、現在のもの) 【平野貴也】

 元々、高橋は基礎技術が高く、真面目に頑張れる選手ではあったが、目立つタイプではなかった。高橋を初めて観たのは、2010年に行われた第34回全日本少年サッカー大会だった。攻撃でも守備でも周りの選手をよくサポートしていた。一般的に、運動能力の高い少年は、突破やシュートを自分でやりたがる傾向があるが、高橋は周囲をサポートするプレーが多かった。

 高橋が所属していた青森FCの伊藤慎悟監督は「相手が強いと守備的ボランチになってしまうけれど、うちの方が強ければ前に出ていく。彼が完全にチームの中心。チームのことを考えながらやってくれる。もっと大きなステージに行ける選手」と当時から高く評価していた。ただし、大会では青森山田の黒田剛監督の息子であるFW黒田凱が大活躍を見せており、高橋の働きは地味でもあった。

 それでも、着実に力を付けていた。青森山田中学校に進学後、2年次には全国中学校サッカー大会で優勝し、13年にはU−15日本代表候補に選出された。私が再び高橋の姿を見たのは、同年5月。大阪にあるJ−GREEN堺で行われたJFAプレミアカップだった。この大会は中学生年代の全国大会に準ずる大会だ。高橋は相変わらず周囲を使うプレーは巧みだったが、迫力不足の印象も伴った。

 当時、青森山田中の上田大貴監督は高橋について「個人の活躍よりチームの勝利を優先して考えられる選手。真面目でチームが良くなることをいつも考えている。ただ、真面目すぎて自分で悩んでしまう。しっかりやれ、真面目にやれと言ったことはないけれど、もっと余裕を持っていいぞ、楽しんでいいぞと言うことはある」と話していた。同年の8月には、優勝候補の中心選手として大会の主役になることを期待された全国中学校大会が行われたが、チームは2回戦で敗れ、連覇を逃した。高橋はどこか日の当たらない場所を歩いてきた選手だった。

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著者プロフィール

1979年生まれ。東京都出身。専修大学卒業後、スポーツ総合サイト「スポーツナビ」の編集記者を経て2008年からフリーライターとなる。主に育成年代のサッカーを取材。2009年からJリーグの大宮アルディージャでオフィシャルライターを務めている。

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