ドローに終わった“低地国ダービー” 攻めるベルギー、耐えるオランダが鮮明に

中田徹

“低地国ダービー”は1905年に始まった

アムステルダムで行われた親善試合の低地国ダービーは1−1の引き分けに終わった 【Getty Images】

“低地国ダービー”と呼ばれるオランダとベルギーのライバル対決は、公式には1905年4月30日、アントワープにわずか800人の観客を集めて始まった(結果はオランダが4−1で勝利)。多くの名勝負の中でも73年11月18日にアムステルダムで行われたダービーは、試合終了目前にベルギーのヤン・フェルハイエンのゴールが誤審でオフサイドを取られて0−0の引き分けに終わり、辛うじてオランダが74年のワールドカップ(W杯)本大会に進出した。もし、フェルハイエンのゴールが正当に認められていたら、オランダは予選敗退となっており、世界を震撼させたオランダの“トータルフットボール”はサッカー史に残らなかったかもしれない。

 ブリュッセルにあるベルギーサッカー協会には、85年のW杯メキシコ大会予選のプレーオフでジョルジュ・グルンがヘディングシュートを決めた瞬間の大きなパネル写真が展示されている。ロッテルダムで決めたこのゴールでベルギーは本大会に勝ち上がり、W杯でベスト4という伝説につなげたのだ。

 親善試合ながら、5−5の引き分けに終わった99年の試合も、今後も語り継がれていくだろう。いずれにしても、多くの試合でベルギーよりオランダの方が“本命”の立場だった。この両国の関係がひっくり返るきっかけとなったのが前回のダービー、2012年8月、ベルギーがオランダに4−2で勝利した親善試合だった。

 ベルギーのゴールゲッターはクリスティアン・ベンテケ、ドリース・メルテンス、ロメル・ルカク、ヤン・べルトンゲンというスターたち。2年後のW杯ブラジル大会でオランダは守備的戦術を採用して3位という好成績を残すも、ベルギーの方が強烈な“個”をそろえ、16年にはFIFA(国際サッカー連盟)ランキング1位にまで上り詰めた。一方、オランダは出場枠が24カ国に拡大された16年ユーロ(欧州選手権)の予選に敗れる失態を犯した。

代表チームの人気度、熱はベルギーに軍配

 現在、ベルギーのFIFAランキングは4位、そしてオランダのランキングは20位だ。とうとう11月9日(現地時間)、アムステルダムで行われた親善試合の低地国ダービーは“ベルギー本命”と言われる中で行われることになった。オランダ、ベルギー両国で人気を集めるオランダ人コメンテーターのヤン・ムルダーは、ベルギーの新聞紙上で「ベルギーは5−0で勝たなければならない。両国のレベル差は倍違う」と語っていたほどだった。

 4年前、ブリュッセルにあるコーニング・バウデワインスタディオンが「オランダに一泡吹かせてやるぞ」という熱気に漂っていたのとは裏腹に、この日のアムステルダム・アレーナ(約5万3000人収容)は満員から程遠い3万8000人しか埋まらなかった。ひとつひとつのプレーに拍手が起こり、歓声で沸くのは、ベルギーサポーターの方だった。両国の代表チームの人気度、熱に差があるのは明らかだった。

 ベルギーは小兵ドリース・メルテンスを“偽のセンターフォワード”に置く、実験的な布陣を敷き、エデン・アザール、ケビン・デ・ブライネと頻繁にポジションチェンジを繰り返す。ヤニック・フェレイラ・カラスコは左のウイングバックとしてサイドを支配し、オランダのMFジョルジニオ・ワイナルドゥムは最終ラインに吸収されがちになった。試合中に4−3−3と4−4−2を使い分けるオランダは、後半からMFデイビー・クラーセンをベンチに下げ、右サイドバックにジョシュア・ブルネットを入れる5バックシステムを採用。両国の現在の力関係を表すかのように「ベルギーの攻撃に、オランダが合わせる」というシステム変更が行われた。

 試合は38分、イェレマイン・レンスの獲得したPKをクラーセンが決めて、オランダが先制する。ベルギーのロベルト・マルティネス監督は64分にメルテンスを下げて、ストライカーのルカクを投入した。そのルカクは78分にゴールの手前でフリーになってクロスを合わせたが、シュートを外してしまった。82分にはカラスコのシュートが相手DFのお尻に当たってGKの頭上を越してゴールイン。その後はアザールがGKと1対1になるシーンもあったが、オランダの守護神マールテン・ステーケレンブルフにセーブされ、1−1のまま引き分けた。これで低地国ダービーの戦績はオランダの55勝30分け41敗となった。

 このダービーは“攻めるベルギー”“耐えるオランダ”と、両国のチームカラーが180度変わったことが鮮明になった試合だった。旧知のオランダ人指導者ロバート・マースカントと久々に会ったが、「引き分けだったけれど、ベルギーの方が明らかにクオリティーが上だったね」と寂しそうに笑ったのが印象的だった。

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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