夢を見続けてきた都築章一郎 フィギュアスケート育成の現場から(14)

松原孝臣

そうそうたる顔ぶれの教え子たち

2015年12月、都築章一郎(左)は青木祐奈(神奈川FSC)のコーチとして久しぶりに全日本選手権を訪れた 【坂本清】

「感無量でしたね」
 2015年12月。札幌・真駒内セキスイハイムアイスアリーナで行なわれた全日本選手権を、都築章一郎はこう振り返る。

 今年で78歳となる。日本大学在学中、選手のかたわらコーチとして教えたのが指導のスタートだ。以来、指導歴は50年をゆうに超える。

 指導に携わった選手は数多い。その中からほんの数名ピックアップしてみれば、1972年札幌五輪のペアに出場した長久保裕と長沢琴枝。76年のインスブルック五輪9位、77年の世界選手権で3位となった佐野稔。80年レークプラシッド五輪9位の五十嵐文男。世界選手権にシングル、ペアの双方で出場した無良隆志。92年のアルベールビル、06年のトリノ五輪(この時は米国代表)でペア、94年のリレハンメル五輪にシングルで出場した井上怜奈。10年のバンクーバー五輪にロシアのペア代表として出場した川口悠子……。羽生結弦(ANA)を教えていた時期もある。そうそうたる顔ぶれが並ぶ。

 シングルに限らずペア、アイスダンスと幅広く選手を育ててきた。また現在、指導者として活躍する教え子も少なくない。その点を考えても、日本のフィギュアスケートの発展に大きく寄与した人物の1人であるのは間違いない。

「3回転ジャンプを跳ばせたい」という思い

「世界に通用する選手を育てたいな、という気持ちが、指導にのめり込む原点ですね」

 その思いを抱かせたのは佐野だった。大学生だった都築は合宿で山梨県のリンクに滞在し、小学2年生の佐野と出会った。「この子はすごい」と感じ取った都築は、山梨に通い、のちに東京でともに生活を送りながら、世界一を目指して指導にあたった。

 都築には、夢があった。「3回転ジャンプを跳ばせたい」。当時は、日本では2回転ジャンプまでが当たり前だった。世界で活躍するには、それを打ち破らなければならなかった。とはいえ、現在とはかけ離れた時代だ。どのようにジャンプを跳ぶ練習をするのか体系的なノウハウはなかったし、海外の情報の入手も困難だった。都築は手探りで練習方法を探した。

「日本大学はスピードスケートがものすごく強くて、五輪選手もいました。彼らの練習を見たら、フィギュアスケートとまったく違う。刺激になって、取り入れられるものは取り入れてやってみようと、アレンジしたメニューを佐野にやらせました」

 当時、陸上トレーニングなど行なう選手はいない中で取り入れた。
「それで体が強くなったのも、ジャンプに生きたような気はします」

 あるいはこんな練習も。
「町でバスを待っている時間に回転の練習をしたり、人が見たら、ばかじゃないかと思えるようなこともやらせましたね。佐野に限らず、長久保にしても、臨床実験をしているようなものでした」

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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