夢を見続けてきた都築章一郎 フィギュアスケート育成の現場から(14)

松原孝臣

ロシアで受けた衝撃

77年の世界選手権で佐野(右)は3位に入った。中央は優勝のコバリョフ(ソ連)、左は2位のホフマン(東ドイツ/共に当時) 【写真は共同】

 試行錯誤を続けた都築にとって、転機となったのは69年のことだった。都築は、長久保や佐野らとソ連(現ロシア。以下、ロシア)のモスクワへ向かった。国際大会へ出場するためだった。

「五輪や世界選手権以外で派遣されるのは稀(まれ)だったのですが、行くことができたのです」

 そこで衝撃を受けた。

「ロシアは世界をリードする国でしたが、私も子供たちも愕然(がくぜん)としました。試合だけでなく、練習も見させていただいたんですね。すると、バレエのレッスンを選手たちが受けている。フィギュアスケートにバレエが必要なのかと驚きました。言葉が分からないし、見て解釈するしかありませんでしたが、練習にメソッドが確立されているのも感じた。レベルが違いすぎました。

 何よりも、フィギュアスケートが文化になっていたのが分かった。日本ではレジャーにすぎなかったから、ものの考え方や捉え方、すべて違う。だいたい、日本での大会は関係者が見るくらいなのに、ロシアでは、年配の人も若い人も親しんで見ていらっしゃる。これだけ違うのに、果たして日本で変革が起こることがあるのかと疑問を持ちました」

 ただ、都築は衝撃を受けただけでは済まさなかった。2週間ほどながら、ロシアのコーチから指導を受ける時間も得られた都築は帰国後、短時間で吸収したノウハウを生かした練習を取り入れた。その成果は、佐野の世界選手権3位となって示された。大会のフリーでは日本男子史上初の5種類の3回転ジャンプに挑み成功させたのも、長年追い求めてきた夢がかなった瞬間だった。

胸を打たれた全日本選手権

「教えていた子たちがコーチとして競っていて、それが嬉しかった」と都築は今季の全日本選手権を振り返る(写真中央は長久保コーチ) 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】

 モスクワでの衝撃は、後々にまで影響を与えた。

 81年、ダイエーグループの誘いを受け、新松戸にできたリンクにスケート学校を新設し、指導を開始した。

 指導のみならず、運営の責任者でもあった都築はのちに、リンクにロシアから頻繁に指導者や選手を招き、交流を図るとともに指導を学んだ。その中にはロシアのナショナルチームのコーチが何人もいたし、五輪の金メダリストも少なくなかった。リストには、ニコライ・モロゾフ、タチアナ・タラソワの名前もある。そこで得たものは、日本のフィギュアスケート界の財産ともなった。

 また、佐野や長久保、無良ら教え子たちもコーチに名を連ねた。

 88年には、仙台にもリンクとスケート教室を開設。
「仙台には長久保に行ってもらいました。そこで本田武史、荒川静香、鈴木明子たちが練習して育ったわけです」

 このように指導者として歩んできた都築は、青木祐奈(神奈川FSC)のコーチとして、昨年12月の全日本選手権へと向かった。久しぶりの全日本選手権だった。そこで目にした光景に胸を打たれた。

「教えていた子たちがコーチとして競っていて、それが嬉しかった。時代を感じました。しかもあの全日本は、言ってみれば、世界選手権をやっているようなもの。世界のトップを争うスケーターたちが出ている大会です。しかも大勢のお客さんが見ていらっしゃる中で、こういう世界を見られるなんて想像もしていなかった」

 日本で変革が起こることがあるのか。そんな疑問を抱いた50年近く前。だが、変革は起きた。多くの選手を育て、ひいては指導者を生んだ都築はその変革の大きな役割を担った1人だ。

 ある意味、夢がかなった現在だが、今なお、都築の指導への情熱に衰えはない。その原動力は何なのか。

(第15回に続く/文中敬称略)

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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