アメリカズカップへの尽きない情熱 早福和彦が積み重ねてきたキャリア
アメリカズカップを知ったきっかけ
ソフトバンク・チーム・ジャパンの総監督を務める早福和彦。彼のこれまでのキャリアを振り返る 【(C)ACEA 2015 / Photo Gilles Martin-Raget】
クルーを選考する立場となるのが、ソフトバンク・チーム・ジャパンの総監督を務める早福和彦だ。早福は、海外チームの一員としてこれまで何度もアメリカズカップに参加してキャリアを積んでいるが、そのきっかけはやはりクルー募集に応募したことから始まっている。
早福がアメリカズカップを知ったのは、NHKが放送した1987年大会のテレビ番組でのこと。当時のアメリカズカップは、12メートル級という大きなモノハル艇(胴体がひとつの艇)でレースが行われていたが、「1987年の大会はオーストラリアでの開催で、そこはフリーマントルドクターという世界でも有数の強風エリア。大波に突き刺さるように船がダイナミックに動いて、そのなかで屈強なクルーたちが戦っている」と、それまでヨットの経験がまったくなかった早福を一発で魅了した。
スポーツで生活していくことへの憧れ
早福の叔父はレスリングの選手で、現役後も大学の監督を務めるなどスポーツを生業(なりわい)として生活をしていた。その叔父の影響で、早福もスポーツで生きていくということに憧れていた。
そこで早福は「個人競技よりも団体競技のほうに引かれていた」と、バスケットボールを競技として選び、「自分はスポ根を地で行くようなタイプ」と自ら語るくらいバスケットボールに夢中になった。高校も地元の名門校・新潟商業に進学し、練習漬けの毎日を過ごしていたという。
「スポーツで生活していく」という思いをいったんあきらめてしまったのが、高校卒業のとき。家庭の事情で大学でのプレーは難しく、インターハイ出場などの実績はあったものの、バスケットボールの選手としては身長が足らず、実業団の選手になることも断念していた。
高校卒業後は地元で就職したが、今度は外の世界を見てみたいという気持ちが大きくなり、上京して海外を回るための資金を貯めていたわけだ。
持ち前の運動能力でクルーに合格
「外の世界を見てみたい」という気持ちと「スポーツで生活していく」という思いで、競技の道に進んだ 【写真は共同】
「外の世界を見てみたい」という気持ちと「スポーツで生活していく」という思い。そのふたつが、「アメリカズカップに参加することでかなえられる」。そう考えた早福は、このクルー募集に応募した。セーリング競技について何も知らない素人だったが、体力テストは高校時代にバスケットボールで培った運動能力で合格。それ以上に「チームの移動や艇の搬送などで大型のバスやトラックを運転できるスタッフも必要だった」と、上京後のキャリアもクルーに合格した大きな要因となっていた。
ベンガルベイチャレンジは、オーストラリアから12メートル級の艇を2艇購入。併せてコーチもオーストラリアから5人ほど招聘(しょうへい)し、トレーニングやレース活動を行っていた。ここで早福はセーリング技術の基礎と英語をオーストラリアのコーチ陣から学んだ。
招聘したコーチたちはプロセーラーとしても活動しており、日本でのコーチ活動だけでなく、月に数度、別のチームに呼ばれて雇われクルーとして海外のグランプリレースを転戦していた。彼らを見て、早福は「こういうプロスポーツ選手としての生き方もある」と、自分もプロセーラーになりたいと憧れるようになっていった。
残念ながらベンガルベイチャレンジは資金難などで、アメリカズカップに参戦する前に解散してしまったが、当時日本からはもうひとつ「ニッポンチャレンジ」も同大会への参戦を表明していた。すでに1992年の大会に挑戦していたニッポンチャレンジでは、1995年の大会に向けてクルーの募集が行われており、早福はこのときに新天地に活動の場を移している。