教える立場になった澤田亜紀の願い フィギュアスケート育成の現場から(4)

松原孝臣

トップ選手が子供たちの身近な存在

「身近なところで活躍している選手たちを見ることができる」と関西大学の環境の良さを挙げる澤田亜紀 【積紫乃】

「ここ(関西大学)は、身近なところで活躍している選手たちを見ることができるので、小さい子にとってよい刺激になると思います」

 関西大学のスケートリンクで指導にあたる澤田亜紀は言う。
 フィギュアスケートの選手は、現在約100名が練習しているという。

 いつか、こんな光景を目にした。
 小さなキャリーケースを転がして、リンクから階段を上がった先の坂を上っていく小学生くらいの女の子たちがいた。練習を終えて帰るところだろう。
「大ちゃん、やっぱりすごいよね」
「いいよね」

 あるいは、やはり小学生くらいだろうか、男の子と女の子の会話が断片的に聞こえてきた。
「織田君ってさ」
「そうだよね」
 子どもが君づけで呼んでいるところに、織田信成のキャラクターや人柄が表れているようだった。

 約100名の選手たちには、氷上のコーチをはじめ、トレーナーなどさまざまなスタッフを合わせて約30名が指導、育成にかかわっている。また、澤田はこんな例を挙げる。

「例えば、昨年の全日本選手権の前は、会場だったさいたまスーパーアリーナがとても暖かいので、さいたまに合わせた温度に調整してもらって練習していたんです。そういう面でも、選手にとってありがたいし良い環境だと思います」

引退、そして就職の選択

2007年の四大陸選手権で4位になった澤田。「内容もよかったので燃え尽きてしまったのかも」と語る 【Getty Images】

 話は現役時代に戻る。
 ふと、澤田は言った。

「大学に入ったあと、スケートが好きだと思えない時期がありました。練習に行くのも嫌だったし、辞めたいなと思ったこともありました」

 その理由は何だったのか。
 尋ねると、澤田は少し考えて答える。

「うーん……高校3年生のとき、四大陸選手権で4位になったのに満足して、内容もよかったので燃え尽きたというか……。うーん。そういうときって成績も上がらないですよね」

 その後、澤田は大学卒業とともに引退した。
 あらためて、引退への経緯を語る。

「大学には奨学金を借りて通っていたんですね。家計が急変したこともあって、決して楽ではないのを知っていたので、アルバイトもしながらの大学生活でした。それこそ後半は、アルバイトでどうにか競技を続けられた感じでしたね。卒業後にバックアップしてくれるところもありませんでしたから、大学を卒業すると同時にやめると決めていました」

 コーチになりたいという思いもあったと言う。それでも就職することを選んだ。

「一度は社会に出たいという気持ちが理由の1つ。もう1つは、だんだんリンクが減っている中で、コーチとしてやっていけるのか、リンクの数に対してコーチの数のほうが多くなっている状態なのに大丈夫かなという不安があったからです」

 そして再び、リンクへと戻ってきた。

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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