「知られざる海外日本人」瀬戸貴幸の冒険 スーパーのアルバイトからEL出場へ

宇都宮徹壱

なぜ瀬戸は主力であり続けたのか?

アストラで8シーズン目を迎える瀬戸。目まぐるしくメンバーが入れ替わる中、常に主力として活躍してきた 【宇都宮徹壱】

 日本から遠く離れたルーマニアで、瀬戸が初めてプロサッカー選手となったのは07−08シーズンのこと。「欧州でプレーしている」といえば聞こえはいいが、東欧の、しかも3部である。その環境の過酷さと運営のいい加減さは、日本代表クラスがプレーするクラブとは、およそかけ離れたものであった。

「ルーマニアの第一印象は、とにかく何もないという感じでした。馬車とか普通に走っているし(笑)。それまでの欧州のイメージとのギャップに、まず驚きましたね。最初はスタジアムの近くにある寮で生活していました。練習して、試合して、寮で食事して、寝て、という繰り返し。お風呂はないし、食事も毎日トリ肉とじゃがいもで、しかも味付けはほとんどなかったです。それでも充実していましたね。休みの日、他の選手が実家に帰るときも、ひとりでグラウンドに出てボールを蹴っていました。寂しくないといえばウソになりますけれど、プロとしてサッカーをしていたので、それなりに楽しんでいました」

 そんな瀬戸にとって幸運だったのが、彼の成長とアストラの躍進が見事にシンクロしたことである。08年、クラブは3部で優勝して2部昇格。翌09年は2部で2位となり、5シーズンぶりにトップリーグに返り咲く。その後3シーズンは2桁順位に終わるが、12−13シーズンは一躍4位に躍進してEL予備戦に出場(プレーオフでイスラエルのマッカビ・ハイファFCに敗れる)。そして昨シーズンはリーグ2位、さらにカップ戦では強豪FCステアウア・ブカレストをPK戦の末に破って見事に優勝を果たした。この躍進の原動力となったのが、ルーマニアの億万長者にしてアストラ会長のヨアン・ニクラエの財力、そして2年前にチェアマンに就任したディヌ・ゲオルゲの的確な補強策によるものであった。

 ここでひとつの疑問が生じる。アストラはここ数年の急激な強化策によって、目まぐるしくメンバーが入れ替わっていった。そうした中(時に干されるときはあっても)、なぜ瀬戸は3部時代からずっと主力としてコンスタントに活躍できたのだろうか。欧州でプレーする日本人は、同じEU枠外の南米やアフリカ出身の選手たちとの競争に打ち勝つ必要がある。彼らのテクニックやパワーやスピードに対し、日本人選手が打ち勝つ要素があるとすれば何か。瀬戸の答えは、やや意外でありながら納得できるものであった。

「ある程度、何でもできることじゃないですかね。日本人はアフリカの選手よりもスピードがなかったり、ブラジル人よりドリブルはうまくないかもしれないけれど、スピードもテクニックも一定以上の水準はある。何でもできるというのは、弱点に思われることもあるけれど、それが求められることもあると思います。あと僕の場合、規律を守るというところで、監督の信頼を得ている部分もあるんじゃないですかね。もちろんそれだけではダメで、試合に出たらきちんと結果を残すことも大事です」

自信となった日本代表スタッフの視察

 そんな瀬戸だが、過去7シーズンの間に何度か移籍話を経験している。10年の夏には、サウジアラビアのアル・ナスルから2年で2億円のオファーがあった。また13年の夏にはカタールSCからも、3年契約での同額のオファーが寄せられている。中東の金満クラブが瀬戸に関心を示したのは、アジア枠が生かせるというメリットを考えてのことだろう。今年の夏には、某Jクラブの強化責任者がルーマニアにやってきて、熱烈なラブコールをしたそうである。しかし、中東のオイルマネーにもJのブランドにも、瀬戸の心が揺らぐことはなかった。その理由は、いたってシンプルなものだった。

「やっぱり欧州へのこだわりですよね。ずっと欧州のサッカーに魅力を感じてきて、それもELやCLという最高の舞台でプレーしたいという想いはずっと抱いてきましたから。その夢が、今回ようやく実現したわけですし」

 かつて地元のスーパーでアルバイトをしながらサッカーを続けていた男は、多少の運と弛まぬ努力の甲斐あって7年後にはELの舞台に立っていた。何というサクセスストーリーであろうか。第2節のザルツブルク戦では、念願のEL初ゴールも決めた(試合は1−2の敗戦)。すでに3敗を喫しているアストラは、このままいくとグループリーグ敗退が濃厚だ。それでもチームには、国内リーグで初優勝して今度はCLに出場するという新たな目標がある。そして瀬戸自身は、今では日本代表と4年後のワールドカップ(W杯)をも見据えている。

「去年、日本代表が東欧遠征をした時に、(アルベルト・)ザッケローニ監督のスタッフが視察に来てくれて、ウチのイタリア人コーチと連絡先を交換していました。そのスタッフの方が言うには、1年半くらい前から僕のことを注目していたそうです。ルーマニアという、日本から見れば『どこにあるんだよ?』っていう国のリーグでも、頑張っていればちゃんと見てくれる人がいる。それを知って自信になりましたね。ですのでブラジルW杯の23人が発表された時点で、次のロシア大会を目指して頑張ろうと気持ちを切り替えました」

 中村俊輔がセルティックで輝いた時代から7年。欧州で活躍する日本人選手は格段に増え、今では日本代表の半数以上を占めるようになった。それと同時に、海外移籍の形も多様化し、Jクラブを経ずに海外へ飛び出す若い選手も出てきている。それでも、まったく無名の存在からELにまでたどり着いた瀬戸貴幸の事例は、極めてユニークであると言えよう。今年28歳となった「知られざる海外日本人」の痛快な冒険は、まだまだ驚くべき続きがあるような気がしてならない。

2/2ページ

著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント