「知られざる海外日本人」瀬戸貴幸の冒険 スーパーのアルバイトからEL出場へ
アストラの瀬戸貴幸とは何者か?
ルーマニア1部リーグのアストラで中心選手として活躍する瀬戸 【宇都宮徹壱】
10月22日、スコットランドはグラスゴーのセルティックパークにて、セルティック対アストラによるEL第3節が行われた。この試合で瀬戸は、定位置のボランチではなくトップ下としてスタメン出場(当人いわく「攻撃の選手が足りなかったため」とのこと)。前半23分にはゴール前で決定的なチャンスを迎えるも、ファーサイドを狙ったシュートはあえなく枠を外れた。瀬戸は後半33分にベンチに退き、試合は1−2で敗れている。戦力差以上に、ヨーロッパでの経験値の差がそのままスコアに現れる試合内容。試合後、瀬戸は自身のプレーについてこう振り返っている。
「いつもと違うポジションでしたが、監督(元ガンバ大阪のオレグ・プロタソフ)の要求したことはできたと思います。守備では失点するまではしっかり守れていたので、そこはよかった。反省点は、チャンスの場面でフィニッシュの精度に欠けたこと。23分のチャンスについては狙いすぎました。相手DFが中に飛び込んでくると思ったので、ファーサイドを狙ったんですけど、思いっきり打ってたら案外入ったかもしれませんね」
ところで対戦相手のセルティックといえば、日本のサッカーファンにとっては元日本代表の中村俊輔(横浜F・マリノス)がプレーしたクラブという印象が強い。セルティックがリーグとカップの2冠を達成し、中村自身もリーグMVPをはじめ4つの個人タイトルを総なめにしたのが2007年のこと。では当時21歳だった瀬戸は、その頃どうしていたのだろうか。
「地元(名古屋)の大型スーパーで、お酒を売るアルバイトをしながら、市のリーグで高校の先輩たちとボールを蹴っていました。高校を出て、ブラジルのサッカー留学から帰ってきてもプロから声がかからなくて。周囲からは『もう諦めたら?』とか『いいかげん就職したら?』とか言われて、自分でもちょっとグラついていた時期でしたね」
無駄ではなかったブラジル留学
「ちょうどそのころ、サッカーをやっていた兄がブラジルに行っていたので、『それなら僕もブラジルへ』という感じで、高校卒業してすぐに行きました。最初はサンタカタリーナ州のアバイFCというチーム。それからコリンチャンスにも練習参加していました」
結局、1年半の留学で受け入れてくれるクラブは見つからず、05年に帰国。昼はアルバイト、夜は公園でひたすらミニゲームを続けながらチャンスを待つ日々が続いた。だが、いくらブラジル留学を経験したとはいえ、日本でまったく実績のない瀬戸に声をかけるJクラブは(さらに言えばJFLクラブや地域リーグのクラブも)皆無であった。当人の気持ちがグラつくのも無理もない。そんなある日、兄のつてで「ルーマニアの3部クラブでテストが受けられる」という話が舞い込む。それがアストラであった。当時、ルーマニアがどこにあって、どんな国なのか、まったく知らなかった。それでも瀬戸は迷うことなく、07年の夏に未知の国へと旅立っていく。新たな冒険の始まりであった。
結論から言えば、瀬戸の18歳でのブラジル留学は無駄ではなかった。むしろ彼が、ルーマニアで成功する礎(いしずえ)になったとさえ言えよう。理由は3つ。まず、海外の生活に順応し、かつポジションを獲得する大変さを学べたこと。次に、自分の足元の技術なら「そこそこやれる」という自信がついたこと。それからもうひとつ、基本的なポルトガル語を習得できたことである。ルーマニア語は、東欧諸国では珍しいラテン語の流れをくむ言語であり、ポルトガル語からの応用は比較的容易であった。
「(ルーマニアに来て)最初のころは2〜3時間勉強していました。言葉はやっぱり重要だと思います。英語がしゃべれるから勉強しないというのではなく、やっぱりその国に来たら、その国の言葉をマスターするというのは意識していましたね。僕はポルトガル語を知っていたので、半年くらいでだいたい話せるようになりました」