大久保嘉人を支えた父との絆、その原点 進化の裏にある指揮官やパサーとの関係性

江藤高志

メンバー発表前日に父の墓参り

父の命日にメンバー入りを果たした大久保。約2年ぶりに代表復帰となった 【写真は共同】

 これほど劇的な選出もないだろう。

 ワールドカップ(W杯)ブラジル大会に臨む日本代表選手を読み上げていったアルベルト・ザッケローニ監督が、16番目に口にしたのは「オオクボ」という名前だった。新聞各紙やテレビでの報道によりご存じの方も多いと思うが、大久保嘉人にとってこの5月12日は、亡き父の1周忌に当たる大事な日だった。その大事な日に大久保は、夢を一つかなえた。

 メンバー発表が行われた12日、川崎フロンターレはアジアチャンピオンズリーグ(ACL)ラウンド16のセカンドレグ、アウェーで行われるFCソウル(韓国)戦に向け移動中だった。その前日となる11日、大久保は生まれ故郷の亡き父の墓前で手を合わせ、天国の克博さんに「選ばれるといいなあ」と心の中で語りかけていた。この帰郷について、大久保はしばらく悩んでいた。過密日程の中、J1・第13節(10日)の鹿島アントラーズ戦から14日のFCソウル戦までは中3日。貴重な休養日に長距離の移動を行うことの是非を考えていたのである。

 一般的な大久保のイメージとして、チームメートのミスプレーに激こうする、短気でわがままな選手というものがあるのかもしれないが、内実は違う。チームのことを優先し、考えて行動ができる選手なのである。たとえば4月22日に行われたACL(アジアチャンピオンズリーグ)グループリーグ第6節の蔚山現代戦のタイミングで大久保は風邪を罹患(りかん)。「節々が痛くて、鼻が詰まってめまいもして、咳が出て、ダッシュもできず、ぶつかられても痛い」という状態に陥る。欠場する理由としては十分な体調だったが、大久保はチームからの求めに応じて試合に出場。3−1で勝利したこの試合の中で、前半34分に森谷賢太郎からの縦パスを絶妙なトラップで持ち出してチームの2点目を奪っている。

絆の原点は国見時代

 チームでも欠かせない存在になっているということを自覚し、自らの出場を第一に考える姿勢を貫きながら、大久保は墓参りを決行した。そう決めた大久保が、鹿島戦2日前の5月8日の練習後、髪をきれいに切りそろえるのは当然のことだった。ファッションに敏感で、服に気を使っていたという敬愛する父・克博さんの遺言に従ったのである。克博さんは遺書の中で、大久保に対し髪を切り、耳を出すよう書きのこしていた。大久保の代表への思いを再点火させてくれた亡き父の墓前に行くのだから、髪を切るという行為は大久保にとって必然のことだった。もちろんそれは重みのある遺書の言葉である。ただ、それにしても、大の大人をして髪型を変えさせる程の絆の原点はどこにあったのか。

 そもそも大久保にとって、国見中学(長崎)への進学が今のキャリアの礎となっている。国見高校の主力選手として出場した全国高校サッカー選手権大会でブレイクし、また家庭を築くことになる最愛の妻との出会いをもたらしてくれたのも国見町での生活があったから。彼の人生をこれだけ芳醇(ほうじゅん)なものにしてくれたのは、借金をしてまで国見町に送り出してくれた亡き父だった。

 それだけ敬愛していた父だったからこそ、葬儀に際しては、大久保は泣きながら喪主としてのあいさつを全うした。また2013年最終節の得点王獲得後のヒーローインタビューでレポーターに泣かされたこともあり、Jリーグアウォーズの得点王の表彰スピーチでは、父の話を一切織り込まなかった。泣くことを分かっていたからだ。

 そんな克博さんとのエピソードは、報道陣に包み隠さず伝えられていた。そうやってプライベートを惜しげもなくさらしたことが、彼の代表選出を後押しした側面があったのは確実であろう。運命の5月12日に向けて、新聞各紙は大久保と亡き父とを関連付けて、連日紙面を割いて報じた。しっかりとしたメディア対応がその根底にあり、そしてメディアとの関係を楽しむ心の余裕が加わることで、メディアは彼の言葉を消費し続けた。

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著者プロフィール

1972年、大分県中津市生まれ。工学院大学大学院中退。99年コパ・アメリカ観戦を機にサッカーライターに転身。J2大分を足がかりに2001年から川崎の取材を開始。04年より番記者に。それまでの取材経験を元に15年よりウエブマガジン「川崎フットボールアディクト」を開設し、編集長として取材活動を続けている。

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