村上佳菜子、女性の迷い、強い意志を氷上で=フィギュア プログラム曲紹介Vol.5

いとうやまね

困難を切り開いていく女性が描かれた、映画『愛のイエントル』のストーリーとは 【坂本清】

 幼少期からの英才教育を基本とするフィギュアスケートの世界。トップ選手たちは、同年代の若者が経験する多くのことを犠牲にしながら氷上に立っています。そこには私たちファンには分からないたくさんの苦悩や葛藤、決断があるに違いありません。村上佳菜子(中京大)は、「人生で道に迷う女性の心境が分かるように表現したい」と、この楽曲への思いを語っています。フィギュアプログラム曲紹介の第5回は、村上選手の演じる『Papa,Can You Hear Me?』にスポットを当てます。

困難を切り開く女性、イエントル

 ミュージカル映画『愛のイエントル』の挿入歌「Papa,Can You Hear Me?」は、過去に幾人もの選手が演技をしているプログラム曲です。映画における背景は複雑で、ユダヤ民族特有の保守的な社会、その中であえてタブーに踏み込み、困難を切り開いて行く一人の女性の姿をコミカルに描いています。解釈によってはフェミニズム映画と称されることもある作品ですが、村上選手は、主人公の前向きな姿に思いを込めたのかもしれません。挿入歌は胸を打つほど美しい曲です。

 話のあらましを少しだけ。

 まだ学問が女性に許されていない二十世紀初頭のポーランド。ユダヤ学者の娘イエントルは、父から密かにユダヤ教の聖典「タルムード」を習います。そんな理解者である父が天に召されると、イエントルは髪を短く切り男装して、名前をアンシェルという男の名前に変えます。そして、故郷を出ると男子にしか許可されていないユダヤ聖典の学校「イェシバ」に性別を偽って入学します。

 やがて、そこで出会った学友アヴィグドルに恋心を抱くようになるイエントル(アンシェル)。アヴィグドルにはハダスという婚約者がいます。ところが兄の自殺を理由に婚約を破棄されてしまいます。ハダスの父親はイエントル(アンシェル)を娘の婿にと言い出し、アヴィグドルもそれを望みました。ハダスもまたイエントル(アンシェル)に思いを寄せるようになります。立場的に追い詰められたイエントルは、ハダスと結婚することになってしまうのですが、果たして3人の若者の運命は……。

 ユダヤ系米国人のノーベル賞作家アイザック・バシェヴィス・シンガーが1962年に書いた短編小説『Yentl the Yeshiva Boy』を、同じくユダヤ系米国人であるバーブラ・ストライサンドが、1983年にミュージカル映画にしたものです。彼女は製作・監督・脚本・主演・主題歌の5役をこなしています。

 この映画の評価は真っ二つに分かれました。アカデミー賞やゴールデングローブ賞の各部門を受賞およびノミネートされているのに、それと同時に、最低評価の映画に与えられるゴールデンラズベリー賞にも複数ノミネートされました。それだけ問題作だったということになります。

神への懺悔と父への思い

 村上選手が演じる『Papa,Can You Hear Me? 』が出てくるのは、男装した主人公がイェシバへ向かう道中です。ヒッチハイクした馬車にだまされ所持金を奪われたイエントルは、野宿を余儀なくされます。星空の下でロウソクをともすと、「パパ、聞こえますか? 空の上から私を見つけられますか?」と天国の父に語りかけます。無鉄砲な自分をざんげし、助けを請い、父を思いながら歌うのがこの曲です。
 村上選手の最後のビールマンスピンは、劇中で印象的だった白いロウソクの炎のようです。曲の終わりに静かに吹き消されます。

 Papa,Can You Hear Me?という言葉は、映画を通して何度も出てくるフレーズです。人生の岐路に立たされた時、迷いが生じた時、イエントルは繰り返し亡くなった父親と対話をするのです。

「Papa,Can You Hear Me?」を含むミュージカルスコアは、フランスの作曲家ミシェル・ルグランによるものです。ルグランは『シェルブールの雨傘』『嵐が丘』『愛と哀しみのボレロ』『レ・ミゼラブル』など、たくさんの映画音楽を手掛けている大作曲家です。
 演技に使われているインストゥルメンタル(演奏)は、イスラエルの偉大なバイオリニスト、イツァーク・パールマンが1997年にリリースした『Cinema Serenade』に収められているものです。ジョン・ウィリアムズが指揮をしたピッツバーグ交響楽団とのコラボレーション作品で、深みのあるバイオリンは、名器ストラディヴァリウスのソイル1714年製だそうです。お分かりになられましたでしょうか?

印象的だったファイエラ&スカリ組のイエントル

しっかりビールマンポジションを取る村上。表現力と技術力、ともに磨きをかけて五輪へ臨む 【坂本清】

 私の中で過去もっとも印象的だった『Papa,Can You Hear Me? 』のプログラムを挙げるとするならば、フェデリカ・ファイエラ&マッシモ・スカリ組(イタリア)のアイスダンスです。
 2007年のスケートアメリカでは、二人が同じ色合の、デザインもほぼ一緒の衣装を身に着けて演技に臨みました。髪の長さもカールの仕方も、前髪を後ろにひっつめたスタイルも同じで、双子のような印象すら受けました。二人の身長差がほとんどないのと、アイスダンスという特性上、遠く離れることがなくシンクロした動きが多いので、まるで「合わせ鏡」のような演出だったのを覚えています。まさに、「イエントルと男装したイエントル(=アンシェル)」といった風で、とても印象に残っています。動画サイトで探してご覧になってみてくださいね。

 映画『愛のイエントル』は、主人公が船で米国に向かうところで終わります。閉鎖的な母国を出て自由の国米国に第二の人生を見出すイエントル。希望に満ち溢れた顔のアップから、やがて船の遠景になりエンディングを迎えます。その姿は男装のアンシェルではなく、ひとりの女性イエントルとして。

 ソチ五輪の大舞台で、その演技の最後に、村上選手の最高の笑顔が見られますように。

<了>
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著者プロフィール

サッカーおよびフィギュアスケートのコラムニスト、サッカー専門TV、欧州実況中継、五輪番組のリサーチャー。コメンテーターとしてTVにも出演。Interbrand、Landor Associates他で、シニアデザイナーとしてCI、VI開発、マーケティングに携わる。後に、コピーライターに転向。著書は『氷上秘話〜フィギュアスケート楽曲プログラムの知られざる世界』『フットボールde国歌大合唱』他、構成『サッカー日本代表帯同ドクター』(土肥美智子)他。

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