ロナウジーニョ、諦め切れぬW杯への道=『セレソン』への試金石となるクラブW杯
フラメンゴへの移籍は失敗……もう終わったか?
アトレチコ・ミネイロで復活したロナウジーニョ。その雄姿が今年のクラブW杯で見られる可能性が 【Getty Images】
フラメンゴでは、互いが名前を求め合った。クラブは看板選手を必要としていたため、ロナウジーニョはマーケティング的に魅力だった。高額なサラリーは、スポンサーを見つけると約束したマーケティング会社トラフィックが8割を払うことで契約がまとまっていた。そしてリオという場所柄、ロナウジーニョの好きな夜遊びもできる。好条件がそろっていたはずだったが、結局、夢のような話は出てこず、スポンサー集めは難航。支払いが滞り、3者の関係は悪化し、この結婚はわずか1年半で終わってしまう。
ロナウジーニョのプレーに全責任があるわけではないが、30歳を過ぎたロナウジーニョは、やる気も無くなり、もう終わったかという印象が漂うようになっていた。
月収が4分の1でも『サッカーができる環境』を求める
アトレチコ・ミネイロのあるベロオリゾンテはリオ州の隣のミナス・ジェライス州の州都。大都市ではあるが、リオやサンパウロに比べればかなり落ち着いた街だ。ただ、サッカーに関しては、アトレチコ・ミネイロとクルゼイロという強豪クラブがあり、ブラジルの中でもサッカーの歴史で重要な役割を果たしている州である。
同郷のクッカ監督から誘われた時、ロナウジーニョはサラリーをフラメンゴでもらっていた時よりも、4分の1になること(月収約1500万円)を了承した。ロナウジーニョ級のプレーヤーでは破格の安さだった。しかし、ロナウジーニョはサッカーができる環境を求めた。
ロナウジーニョは批判を跳ね除け、監督の期待に応えた。パスが冴え、攻撃の起点になる動きでチームをブラジルリーグ2位に押し上げたのだ。
06年にブラジルリーグ・セリエB(2部)に降格して、翌年にはAに返り咲いたものの、ここ10年ほど、芳しくない成績のアトレチコ・ミネイロが優勝は逃したものの次年度のリベルタドーレス杯出場権を得たことは、サポーターにとって名門の誇りを復活させることになった。
さらに、個人としては、ロナウジーニョは、最優秀MF賞に選ばれ、プレステージを取り戻した。それと同時に、代表への期待も上がっていった。
会長の逆鱗に触れ、代表に呼ばれなくなる
ところが、アトレチコ・ミネイロでの好調さが、新監督に就任したルイス・フェリペ・スコラーリを後押ししたこともあり、スコラーリ監督の初招集時にはロナウジーニョの名前が上がり、さらには4月に行われた2試合にも名を連ねた。
しかし、ロナウジーニョは4月24日アトレチコ・ミネイロのホームスタジアム、ミネイロンで行われたチリ戦でCBF(ブラジルサッカー連盟)のジョゼ・マリア・マリン会長の怒りを買うことになってしまった。
「例えば、あなたが私を夕食に招待する。私があなたの家に着いたとき、あなたはそこにいない。あなたという主役が現れるのを待って、待って、やっと最後に登場する。やってられない!」(マリン会長)
主役とはロナウジーニョのことだ。ロナウジーニョは集合場所のベロオリゾンテに住んでいるにもかかわらず、約束の時間に現れなかったことを会長は許せなかった。「セレソンはピッチの中でも外でもその姿勢が問われる!」と大層機嫌を損ねた。
このフレンドリーマッチのすぐ後に、スコラーリ監督はコンフェデレーションズカップ(コンフェデ杯)のメンバーを発表したが、そこにロナウジーニョの名前はなかった。監督はロナウジーニョがコンフェデ杯のリストに入らなかった理由を特に説明しなかったため、会長の意見が影響したのかどうかの事実関係は分からない。