大儀見優季がなでしこで見せる成長の跡=心技体が響き合い進化する日本のエース
マスコミ嫌いで泣き虫だった「オンナ釜本」
なでしこのエースの地位を確立した大儀見。その成長は常に涙とともにあった 【写真:CameraSport/アフロ】
26歳にして、あと2試合で代表100試合出場を達成し、初めて代表入りした2004年から数えると今年で日本代表10年目となる。出場歴、その風格からして、何年も前からベテランと思われがちだが、「代表では、まだ下から数えた方が早いからね」と笑う。しかし、自分のプレーでチームを引っ張っていくという自覚は人一倍で、すでに何年も前からその思いでプレーしている。
年齢の数字以上に経験が豊富な彼女は、「すべての経験がプロセスとなり、今の自分を作ってきた。そして今、この瞬間も未来へ向けてのプロセス」ということをよく口にする。大儀見のプレーや言動からは、「強いオンナ」というイメージがぴったりくるが、当然ながら、最初からそうだったわけではない。さまざまな経験を積み、その強さを備えてきたのだ。
日本代表デビューは、高校2年生の時だった。天才プレーヤーが現れたと注目を浴び、周りの大人たちが作る自分のイメージに苦しみ、代表遠征があるたびに記者やテレビカメラに囲まれることを嫌った。
「オンナ釜本」。こう呼ばれていたことが、彼女にとっては「光栄だったけれど、それは重荷でしかなかった」と言う。「自分は、釜本さんのようにすごくないし、まだ何も成し得ていないのに、なぜそう呼ばれるのだろうか疑問だった。自分が思っていないようなことを質問されるのも辛かったし、どう答えていいのかわからなかったから、マスコミも苦手だった。それに私、泣き虫だったよね」と、当時のことを笑ってふり返る。
大舞台で流してきた数々の印象的な涙
19歳の時にオーストラリアで開かれたアジアカップでは、大会得点王に輝いた。しかし、チームは4位に終わり、彼女に笑顔はなかった。表彰式を終えて取材エリアに現れた彼女は、周りの祝福ムードを一蹴し、「チームを勝たせられなかったのだから、得点王になってもうれしくなんてない」。そう言って泣きじゃくった。19歳ながら、チームを勝たせるのが自分の仕事なのだという思いが強かった証拠だ。
20歳で迎えた07年ワールドカップ(W杯)中国大会への切符が懸かったメキシコとのプレーオフ。アウエーの地でW杯行きを決めた際のこと。成田空港で、チームメートが歓びの帰国会見を開いているとき、成田エクスプレスの改札で人知れず悔し涙を流していた。W杯行きの決定は当然うれしかったが、その一方で、そんな大切な試合だったのにもかかわらず、試合に出してもらえなかったことが悔しいと泣いていた。
21歳で出場した北京五輪ではメダルに1歩届かず、ベスト4に終わった。試合後、大儀見は人目をはばからず泣き崩れた。チームを勝たせることができなかったことの悔しさ、何よりこれまで女子サッカーをけん引してきた、ピッチに立てずにいる先輩たちへの思いの強さが涙になって流れ落ちた。試合後は、当時のキャプテン、磯崎浩美に抱えられようやく歩くことができた。
今では言葉を巧みに操る彼女も、当時はその思いをうまく言葉にすることができず、思いの強さが涙になっていた。
女子サッカー王国のドイツで認められる存在に
女子サッカー王国のドイツで、当時はまだ無名だった日本人が最初から受け入れられたわけではない。「監督から理不尽な怒られ方をしたこともあるし、ドイツ人の方がサッカーでは優れているという感じだった。悔しい思いをたくさんした中で、どうすれば認められるのか、どうすれば自分の思いが伝えられるのか。どうすれば自分のプレーが認められるんだろう。行ってからしばらくは、そんなことを考えてばかりいました」
プロではあるが、通訳がつくはずもなく、ドイツ語の習得は必須。今では、インタビューも流暢(りゅうちょう)なドイツ語でこなし、生放送のラジオ番組にゲスト出演するほどまでに上達している。外国籍選手の多いポツダムでは、自然と英語で話す機会も多く、ドイツ語と英語、2つの言葉を操りながらチームメートとコミュニケーションをとった。