大儀見優季がなでしこで見せる成長の跡=心技体が響き合い進化する日本のエース

日々野真理

マスコミ嫌いで泣き虫だった「オンナ釜本」

なでしこのエースの地位を確立した大儀見。その成長は常に涙とともにあった 【写真:CameraSport/アフロ】

 サッカー日本女子代表(なでしこジャパン)は、20日に開幕する東アジアカップ(韓国)に大会3連覇を懸けて臨む。そんなチームの中で、今や不動のエースの地位を確立し、欠かせない存在となったのが大儀見優季だ。

 26歳にして、あと2試合で代表100試合出場を達成し、初めて代表入りした2004年から数えると今年で日本代表10年目となる。出場歴、その風格からして、何年も前からベテランと思われがちだが、「代表では、まだ下から数えた方が早いからね」と笑う。しかし、自分のプレーでチームを引っ張っていくという自覚は人一倍で、すでに何年も前からその思いでプレーしている。

 年齢の数字以上に経験が豊富な彼女は、「すべての経験がプロセスとなり、今の自分を作ってきた。そして今、この瞬間も未来へ向けてのプロセス」ということをよく口にする。大儀見のプレーや言動からは、「強いオンナ」というイメージがぴったりくるが、当然ながら、最初からそうだったわけではない。さまざまな経験を積み、その強さを備えてきたのだ。

 日本代表デビューは、高校2年生の時だった。天才プレーヤーが現れたと注目を浴び、周りの大人たちが作る自分のイメージに苦しみ、代表遠征があるたびに記者やテレビカメラに囲まれることを嫌った。

「オンナ釜本」。こう呼ばれていたことが、彼女にとっては「光栄だったけれど、それは重荷でしかなかった」と言う。「自分は、釜本さんのようにすごくないし、まだ何も成し得ていないのに、なぜそう呼ばれるのだろうか疑問だった。自分が思っていないようなことを質問されるのも辛かったし、どう答えていいのかわからなかったから、マスコミも苦手だった。それに私、泣き虫だったよね」と、当時のことを笑ってふり返る。

大舞台で流してきた数々の印象的な涙

 彼女が泣いている姿を思い返してみると、いくつもの印象的な涙がある。

 19歳の時にオーストラリアで開かれたアジアカップでは、大会得点王に輝いた。しかし、チームは4位に終わり、彼女に笑顔はなかった。表彰式を終えて取材エリアに現れた彼女は、周りの祝福ムードを一蹴し、「チームを勝たせられなかったのだから、得点王になってもうれしくなんてない」。そう言って泣きじゃくった。19歳ながら、チームを勝たせるのが自分の仕事なのだという思いが強かった証拠だ。

 20歳で迎えた07年ワールドカップ(W杯)中国大会への切符が懸かったメキシコとのプレーオフ。アウエーの地でW杯行きを決めた際のこと。成田空港で、チームメートが歓びの帰国会見を開いているとき、成田エクスプレスの改札で人知れず悔し涙を流していた。W杯行きの決定は当然うれしかったが、その一方で、そんな大切な試合だったのにもかかわらず、試合に出してもらえなかったことが悔しいと泣いていた。

 21歳で出場した北京五輪ではメダルに1歩届かず、ベスト4に終わった。試合後、大儀見は人目をはばからず泣き崩れた。チームを勝たせることができなかったことの悔しさ、何よりこれまで女子サッカーをけん引してきた、ピッチに立てずにいる先輩たちへの思いの強さが涙になって流れ落ちた。試合後は、当時のキャプテン、磯崎浩美に抱えられようやく歩くことができた。

 今では言葉を巧みに操る彼女も、当時はその思いをうまく言葉にすることができず、思いの強さが涙になっていた。

女子サッカー王国のドイツで認められる存在に

 世界で勝つためにはどうすればいいのだろう? 北京五輪後に考えた結果、女子サッカー界の頂点でもあるドイツに渡る決意をした。それまで所属していた日テレ・ベレーザから、世界の強豪であるドイツ、その中でも強豪の1.FFCトゥルビネ・ポツダムへと移籍。そこから3年半を過ごした中で、3度のリーグ優勝、1度のチャンピオンズリーグ優勝も手にしてみせた。これがドイツでの最後の年だと決めていた昨シーズンには、外国籍選手でありながら、キャプテンマークを巻いてピッチに立ちチームをけん引した。開幕前には、「得点王をとりたい」と宣言。チーム事情が苦しい中でも得点を重ね、宣言通り、得点王に輝き、ドイツでの最後のシーズンを締めくくった。

 女子サッカー王国のドイツで、当時はまだ無名だった日本人が最初から受け入れられたわけではない。「監督から理不尽な怒られ方をしたこともあるし、ドイツ人の方がサッカーでは優れているという感じだった。悔しい思いをたくさんした中で、どうすれば認められるのか、どうすれば自分の思いが伝えられるのか。どうすれば自分のプレーが認められるんだろう。行ってからしばらくは、そんなことを考えてばかりいました」

 プロではあるが、通訳がつくはずもなく、ドイツ語の習得は必須。今では、インタビューも流暢(りゅうちょう)なドイツ語でこなし、生放送のラジオ番組にゲスト出演するほどまでに上達している。外国籍選手の多いポツダムでは、自然と英語で話す機会も多く、ドイツ語と英語、2つの言葉を操りながらチームメートとコミュニケーションをとった。

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著者プロフィール

三重県出身。武蔵野女子大学短期大学部卒業後、米国に語学留学。帰国後、OLからフリーアナウンサーに転身し、1999年よりJリーグのレポーターとしてサッカーに関わり、以来サッカーを中心に活動。2002年ワールドカップ日韓大会期間中、「どこよりも奥深いワールドカップスタジオ」メインキャスターを務めた。10年W杯はスカパー!ワールドカップ番組のコメンテーターとして出演。Jリーグ中継のピッチレポーターを担当するほか、ハイライト番組やサッカー関連番組の司会中心に、インタビュアー、コメンテイターも多数務める。また、女子サッカーの取材も行っており、03年より「なでしこジャパン」の密着取材を10年以上に渡り続け、「なでしこジャパン」代表選手との親交も長い。著書は『凛と咲く なでし こジャパン30年目の歓喜と挑戦』(KKベストセラーズ)、共著は『世界一なでしこの 突破術』(双葉社)、構成として『ほまれ』(河出書房出版)、『負けない自分 になるための32のリーダーの習慣』(幻冬舎)など多数の書籍の出版にも携わる。20日開幕の東アジアカップではフジテレビのリポーターをつとめる。

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