集客ワーストからの脱却はなぜ実現したか?<後編>=J2漫遊記 第4回・水戸ホーリーホック
水戸黄門から水戸ホーリーホックへ
水戸駅前にある水戸光圀像。長寿番組「水戸黄門」も、昨年でシリーズ終了となった 【宇都宮徹壱】
名物の水戸納豆だろうか。それとも「日本三名園」のひとつ偕楽園だろうか。はたまたNHKの地震速報で水戸放送局の定点カメラが映し出す、水戸芸術館のオブジェだろうか。いやいや、水戸のパブリックイメージといえば、やはり何と言っても水戸黄門であろう。「じゃん、じゃじゃじゃじゃん、じゃじゃじゃじゃん、じゃじゃじゃ、じゃんじゃん」というボレロのようなイントロの主題歌でおなじみのテレビシリーズは、1969年の放映開始から43回ものシリーズを重ね、昨年12月19日をもって最終回を迎えることとなった。
「水戸黄門が終了した今、水戸の看板を背負い、水戸を全国に発信する存在は何かといえば、ホーリーホックなわけです。去年の選挙の際、わたしはスポーツ文化の重要性を訴えてきましたが、水戸黄門の放送がなくなって、ますますその思いは強まりましたね」
そう語るのは、現水戸市長の高橋靖。昨年5月29日に現職となって以来、高橋はホーリーホックを支援する姿勢を明確に打ち出している。自治体の長が、ホームタウンのクラブを支援すること自体、決して不思議な話ではない。だが水戸の場合、2つの意味において非常に画期的なことであった。第一に、これまでクラブと行政との関係が極めて希薄であったこと。そして第二に、震災直後の厳しい状況の中での決断であったことである。
まず、クラブと行政の関係について。FC水戸がプリマハムFC土浦と合併し、旧JFLへの参加が決まった97年、水戸市は「財政支援もスタジアム建設もグラウンドの提供も一切しない」という覚書をクラブと交わしている。当時の社長の石山徹と市長の岡田広は、いずれも水戸商業高校の出身ながら、まったくそりが合わなかったという。その後、加藤浩一市長時代の06年、那珂川の河川敷にある土地を練習施設として貸与され(のちにホーリーピッチと命名)、さらに09年には水戸市立競技場がケーズデンキスタジアム水戸として改修されるなど、決して行政側は地元のJクラブを無視してきたわけではない。それでも両者の関係が正常化するには、昨年の高橋市長の誕生まで待たねばならなかった。
震災直後に支援を表明した水戸市長の思惑
震災直後に就任した高橋市長。水戸ホーリーホックへの500万円の出資を押し通した 【宇都宮徹壱】
「(水戸ホーリーホックは)株式会社だけど、公共・公益を担う会社だと思います。地域に夢と活力をもたらしているわけですから。いろいろご意見もあったので、金額的には決して多くはないですが、500万円の出資を踏み切ることになりました。震災がなければ、もう少し市民理解が得られたと思いますが」
それほどまでに、高橋がクラブのサポートを優先した理由は何か。当然ながらそこには、政治家としての信念と冷静な判断が働いている。
「全国に1700以上の自治体がある中、J1とJ2は40チームしかない。この希少性はすごいと思います。これから街作りと情報発信、さらには教育や文化などの他方面でホーリーホックを活用させていただきたいと思っています。これだけコンベンション機能があって、華やかさがあって、元気や明るさを発信できる。それがサッカーだと思っています。強くなれば、水戸市のイメージアップにもつながりますし」
とはいえ自治体の財政は、全国的にどこも厳しいのが実情だ。大阪の橋下徹市長が文楽協会に対し、補助金をカットするか否かで全国の注目が集まる昨今、芸術・文化関連の予算削減は世の流れのようにも見える。そんな中、景気低迷と震災というダブルパンチを浴びながらも、地元サッカークラブを支えようとする水戸市の姿勢は、ちょっとした奇跡のようにも思えてしまう。しかし高橋にとって、この判断は至極当然のことであったようだ。
「(元市長の)佐川一信さんが水戸芸術館を100億円で作ったとき、ほとんどの市民は決して賛成ではなかったんですね。運営費も年間10億円――今は半分くらいですが、当時はそれくらいかかった。でも、それを思い切って決断した結果、水戸芸術館は世界で認められる存在になりました。それは政治家の直感だったと思う。芸術や文化やスポーツというのは、一見無駄なんです。少なくとも市民から見れば、最初は無駄なお金を投入しているように見えるでしょう。それでも、われわれ行政は『将来、大きなフィードバックがありますから』ということを、市民にご理解いただくことが大事なんだと思っています」