17年間のプロ生活に悔いなし=元日本代表・三浦淳寛インタビュー

宇都宮徹壱

現役引退を表明した三浦氏がこれまで内に秘めていた思いの丈を語ってくれた 【宇都宮徹壱】

 突然の引退宣言だった。元日本代表・三浦淳寛氏(編注:淳宏から改名)が現役引退を表明したのは4月4日、自身のホームページ上のことであった。プロ生活17年。J1で323試合、J2で109試合に出場し、J1リーグのFK通算ゴール数は15で、5月22日現在では単独1位である。代表キャップ数は25。ワールドカップ(W杯)出場こそならなかったが、左サイドから思いきりよく駆け上がる姿と、右足から繰り出されるブレ球FKは多くのサッカーファンを魅了した。ある意味、記録よりも記憶に残るプレーヤーと言えよう。

 そんな三浦氏には、聞いてみたいことが山ほどあった。プロデビューした横浜フリューゲルスのこと。フリューゲルス消滅後のキャリアのこと。サブ組に甘んじることが多かった日本代表のこと。たゆまぬ努力の末に体得したブレ球FKのこと。そして、セカンドキャリアのこと。「やり切った」という自負からか、三浦氏の表情は実に柔和で、その言葉によどみはなかった。偉大なプレーヤーの新たな門出を祝福しつつ、これまで内に秘めていた思いの丈をさっそく語ってもらうことにしよう。(取材日:5月10日 インタビュアー:宇都宮徹壱)

「このタイミングで指導者の道に」

――横浜FCから去ることが決まって、引退を発表されるまで4カ月。その間、葛藤みたいなものがあったんじゃないかなと想像するんですが、いかがでしょうか?

 よく言われるんですけど、正直そこまで葛藤というよりも、今は先のことを見ていますね。前向きな考え方ができているので、充実した日々を過ごしています。実は、1月16日に娘が生まれたんです。(夕魅夫人には)今まで支えてもらって、自分最優先でやってきてもらった分、家族に愛情を注ぎたいし、できる範囲で僕は(育児にも)協力したいと思っています。

――じゃあ、おむつを替えたり、お風呂に入れたり

 もちろん。今はデレデレしています(笑)。ここに来る直前までお風呂に入れて、おむつを替えてきました。よく周りは「チームはどうするんだ?」って気にかけてくれたし、妻からも「情熱がある限り、カテゴリーに関係なく(現役を)続けた方がいいんじゃない」って言ってもらったんです。そういう言葉って、すごくありがたいと思う。いろいろなことを考えた上で出した結論が「このタイミングで指導者の道に」でした。

――とはいえ、去年暮れの時点では「まだ続けたい」という気持ちもまだ残っていたんじゃないですか?

 昨年、初めて戦力外通告を受けて、現役を続けることも視野に入れながら、いろいろと考えました。でも冷静に考えたら、このタイミングで指導者の勉強を始めることが、自分にとってプラスじゃないかなと思って。もちろん、あと1、2年現役を続けることもできたと思うんです。ただ、それだけ指導者のライセンスの取得が遅くなりますから。

――元チームメートのカズさん(三浦知良)のように、現役にこだわるような生き方もあれば、三浦さんのようにどこかでスパッと切ってすぐ次の人生にという生き方もあると思うんですけど、カズ選手と引退についての話はしましたか?

 カズさんとは神戸でもチームが一緒だったんで、いろいろな話をしましたね。カズさんの「できるまでやる」というスタンスも、もちろん「あり」だと思う。でも(現役引退のタイミングは)人それぞれ違うと思うんです。ですから、カズさんと話したことも考えながら、最終的に自分で出した結論なんですよね。

レシャックのサッカーが楽しかった

――三浦さんは1994年に横浜フリューゲルスに入団して、翌95年からはスタメンを確保しています。当時はJリーグの景気が良かったころですし、現役のブラジル代表とプレーできたという意味でも、本当に夢がありましたよね。ジーニョがいて、サンパイオがいて、エバイールがいたわけじゃないですか

 確かにそうですね。ジーニョなんか、94年のW杯の優勝メンバーですからね。実は僕、フリューゲルスで唯一、ジーニョとけんかした選手なんです(笑)。最初、ブラジル人3人でやろうとしていたんですよ。僕がいいタイミングで左サイドを駆け上がっても、パスが出てこない。そのくせ自分がボールを奪われると、僕のせいにする。だから言い返しましたよ、日本語で(笑)。そしたらジーニョはカンカンに怒ったみたいで。そりゃそうですよね。世界一のチームの選手が、日本の若造に文句を言われたんですから。だから最初の1週間ぐらいは、練習中でもぜんぜんパスが来なかった。でも試合をやっているうちに、ジーニョも少しずつ僕のことを認めてくれたみたいです。それからパスがいっぱい出てくるようになって、一番仲良くなりました。

――先日、サッカーダイジェストで三浦さんのインタビュー記事を読んていたら、(カルロス・)レシャック監督(元バルセロナ監督)が指揮していた98年が、フリューゲルス時代で一番楽しいサッカーだったと語っていましたね

 そうですね。ただ、選手のレベルがついていかなくて、成績不振で監督が交代してしまいましたけど。レシャックは「これはヨハン・クライフとバルサで一緒にプレーしたときに学んだサッカーなんだ」と言っていましたね。「日本人は動き過ぎだ。自分が走って汗かくのもいいけど、ボールに汗をかかせろ。ボールをもっと走らせろ」って。

――当時、レシャックが左サイドの三浦さんに求めた役割は、どのようなものだったんでしょうか?

 ポジショニングのことは言われましたね。普通は中盤やアタッキングエリアに意識がいって、ボールの方に寄っていくんですよ。右サイドにボールがあるときに、左サイドの選手は中に入っていく。でも、レシャックは「もっと味方を信用して、お前は逆サイドにいろ」と。シャビ・アロンソみたいなサイドチェンジのパスが来たときに、自分の得意技で勝負できるわけです。縦に入れるパスなんかも、選手が動き過ぎてパスコースを消してしまって、パスがスムーズに回らなくなる。だから、とってもトライアングルの形を大事にしていましたね。
 最初は全くボールが回らなくて「レベルがついていかないな」と思ったんですけど、レシャックも成績が出ない中で、毎日トレーニングをやるわけですよ。そうしたら、次第にボールが回るようになったんです。実際に、トレーニングの成果が出たような試合もあったんですね。

――長期的な視野に立って、もう少しレシャック体制が続いていれば、けっこう面白いチームになったんじゃないですか?

 いやあ、絶対面白かったと思いますよ。もちろん、成績が出なければ何か変えないといけないとは思いますけど、僕はあのままの体制でいってほしかったですね。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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