17年間のプロ生活に悔いなし=元日本代表・三浦淳寛インタビュー

宇都宮徹壱

所属したすべてのチームに愛着がある

99年1月1日天皇杯決勝での三浦氏。この後、横浜フリューゲルスは解散となった 【写真:AFLO】

――フリューゲルスと言えば避けられないのが、98年シーズンの天皇杯を最後にチームが解散してしまったことです。あの悲劇を今はどうとらえていますか?

 当時のJクラブって、親会社に頼っていた部分がものすごくあったと思うんですね。佐藤工業さんも全日空さんも力を入れてくれていたんですけど、最終的には親会社同士の話合いですよね。当時は(合併先の)日産さんも厳しかったと思うんですよ。お互いにトップで決まった話なので、結局、僕らはどうすることもできなかった。天皇杯で優勝できたのは、最後の最後まで信じていたからなんですね。ここで優勝することによって、チームが存続できるんじゃないかと。

――新たなスポンサーが名乗りを上げてくれるんじゃないか、とか?

 そうですね。うわさでは、いくつか(候補が)挙がっていたとは聞いたんですけど、事実かどうかは分からないです。ただ、僕らは最後まで(チーム存続の可能性を)信じて戦っていた。まさに『スクール・ウォーズ』の世界ですよ。鹿島も磐田も清水も、強いチームを全部倒して優勝した。本当に、みんなで懸ける意気込みというのが、実力以上の力を発揮できたんだと思います。試合もやりながら、駅に行って署名運動とかやって、けっこう忙しかったんですけど、それでも最後まで可能性を信じてやったんですけどね。

――その後、三浦さんは横浜F・マリノスに移籍します。それからさらに3チームを渡り歩いて、合計5チーム。これほどチームが変わるというのは想像していました?

 フリューゲルスは本当にいいチームだったんで、思いは強かったですね。ただ、やっぱり自分の在籍したチームにはすごく愛着を持ってますよ。毎回そこで(引退しよう)って思うんですけど。横浜FMも東京Vも神戸も横浜FCそうだし。愛着はやっぱりありますよ。

――この17年、J1で323試合、J2で109試合に出場しました。ご自身で「よくやったな」っていう気持ちはありますか?

 はい、十分やってきたと思います。若いころは正直、30歳くらいまでやって、次は指導者か、別の仕事をやるのかなと思っていたんです。だから、それまでは必死にやろうと思っていました。より体のケアを考えるようになったのは、サッカーをやっていた妻の影響もありますね。それまでは、けっこうむちゃくちゃしてましたから。

ジーコ・ジャパンの転機となった「アブダビの夜」

――日本代表についても、お話をうかがいます。日本代表のキャップ数は25でゴール数は1。残念ながらW杯出場はかないませんでした。代表での印象深い大会は、やはり2000年のシドニー五輪でしょうか?

 うーん、でも五輪ってサッカーの大会としてはどうなんですかね。シドニーは話題になりましたけど、フル代表じゃないですから。それより99年のコパ・アメリカ(南米選手権)の方が印象が強いですね。成績は悪かった(1分け2敗)ですけど、僕個人としてはものすごくいい経験になりましたね。

――ペルー戦では、敗れはしましたけど、代表で唯一のゴールを決めていましたね。そういえば日本代表は今年、アルゼンチンで行われるコパ・アメリカに出場する予定ですが(後に辞退)、実際に12年前に経験された立場からどう考えますか?

 行った方がいいと思いますよ。たぶん、日本のプレーの質や戦術、個人の機敏な動きとかは欧州には通用するんですよ。それでも、南米の弱いチームでも負ける可能性はあると思いますね。彼らはとにかくハングリーだし、国同士の戦いになると特にね。だから、日本代表が向こうで真剣勝負をすることは、すごいプラスになると思いますよ。

――結局、02年のW杯はけがでメンバーに残れず、ドイツ大会を目指すことになります。アブダビで行われたバーレーン戦(W杯アジア予選、アウエー)の直前合宿では、三浦さんが「みんな、本当にW杯へ行きたいのか? おれは年齢的にも最後だから出たい」と熱く語った、いわゆる「アブダビの夜」が有名です

 あの時は本当に、年齢的にも最後だと思っていたから、それに懸ける思いっていうのがあったんです。それをキャプテンのツネ(宮本恒靖)と話していたんですね。そうしたらツネが「じゃあアツさん、それミーティングで言ってくださいよ」って話になって。で、試合の3日前くらいかな。夜にミーティングがあって。重い空気なんですよ。チームがうまくいっていないことを、みんな理解していたんですね。そしたらツネが「アツさん、何かありますか?」って、一発目で僕に当てて。それで僕は、この予選に懸けていることと「今のままじゃ(予選突破は)難しいし、非常に厳しい状況になる」と話したんですね。何が難しいかというと、たとえば練習で紅白戦やりますよね。そうしたら、僕らサブのチームが勝つわけですよ。やっぱり試合に出たいから「ここでアピールする」っていう気持ちになるんですね。

――ジーコの代表は、スタメン組とサブ組という明確な線引きがありましたからね

 でも、サブ組の僕らにしてみれば、「試合に出るんだったらしっかりやって、紅白戦でも勝ってほしい」って思うんですよ。そうすれば僕らも納得しますから。なんか僕は、もどかしさというか「やってくれよ」っていうのがあったんですよ。ヒデ(中田英寿)がいて俊輔(中村)がいて伸二(小野)がいて、そして稲本(潤一)がいて、みんなそれぞれ優秀なタレントじゃないですか。それが互いに遠慮していたんですよ。「おい俊輔! 何やってんだ!」とか絶対言わないんですよ。だから「こんなんじゃ負けるぞ」と思って。

神戸に残ったことは後悔していない

――三浦さんが思いのたけを吐露した後、どうなりました?

 そこから、いろいろな人が話をするようになりましたね。ミーティングが終わった後も、僕はヒデとチームについて話しました。あんなに話し合ったのは初めてでしたね。たぶん僕の話の中で、彼なりに共感できるところがあったんでしょうね。

――その後、日本は晴れてW杯出場を決めました。ただし三浦さんは、当時(05年)所属していた神戸がJ2に降格したこともあり、代表に招集されることはありませんでした。W杯イヤーにJ1のチームに移籍することは考えなかったのですか?

 考えましたよ。だけど、できなかったんですよね。なぜかというと、そのシーズンの途中から僕はカズさんに代わって、キャプテンを任されていたんです。だから、ものすごく責任を感じていました。最終戦でサポーターにあいさつした時、三木谷(浩史)オーナー、社長、監督、僕という順だったんですね。僕に対してだけは拍手を送ってくれたんです。でも、これだけ成績が悪かったら、それは絶対に選手のせいなんですよ。
 三木谷さんを含めてフロントの方たちは「W杯があるんだから、J1のチームに移籍して、チャレンジしてみたら」と言ってくれたんです。すごくありがたい話だけど、余計に出るわけにはいかないなと思って。僕、こう見えても責任感は強いんですよ(笑)。

――今でも後悔はしていませんか?

 してないですよ。実際に1年で(J1に)上がることができましたから。W杯に出られなかったことは、運命ってやつですかね。自分の実力のなさも分かっているんで。

――ただ私個人としては、06年のドイツ大会に三浦さんのようなベテランが入っていたらと、今でも思います。それこそ、その2年前に中国で行われたアジアカップでは、三浦さんや藤田(俊哉)さんといったベテランがサブ組のケアをしていたから、チームがひとつとなって優勝できたわけじゃないですか。結局、チームがひとつになれないまま、グループリーグ敗退となったのは、本当に残念でなりません

 僕はテレビで見ていて、すごく悔しかったですね。それぞれの選手のポテンシャルの高さを、僕は十分に分かっているわけですよ。だから、グループリーグを突破できると思ったし、もっといい成績を出せるって僕は信じていました。でも実際には、チームがうまくまとまらず、「すごい大変だった」という話を人づてに聞きました。

――ヒデも無理して、何とかまとめようとしていたみたいですね

 人には、それぞれの役割というのがありますからね。ヒデも当然、頑張っただろうし、ツネもフク(福西崇史)も頑張ったと思うんです。でも、もうちょっと先を見たかったなっていうのはありますね。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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