コービーが本当に誇るべきもの
ワンマンチーム―― 5年前のレーカーズ
レーカーズのスーパースター、コービー・ブライアントが2006年1月22日のラプターズ戦でNBA史上2番目に多い1試合81得点を記録してから、5年目を迎えた日であったからだ。
史上最多は往年の名選手、ウィルト・チェンバレン(ウォリアーズ)が1962年に記録した100得点。今後、誰も破ることができないであろう不動の記録に続く高得点で、ハーフタイムには14点差をつけられていたチームを勝利に導いたのだ。
ブライアントが記録を達成した当時のレーカーズは、今のように優勝候補に挙げられる強豪チームではなかった。
2000年から3連覇を達成したが、03−04シーズンのファイナルでピストンズに敗れて以来、名将フィル・ジャクソンが監督から退き、シャキール・オニールら黄金時代を支えた中心選手のほとんどがチームを去った。すっかり戦力ダウンしたレーカーズは、続く04−05シーズンはプレーオフ進出さえ逃した。ブライアントのワンマンチームと化し、会場に来るファンは、ブライアントの活躍だけを頼りにしていた。それだけに、この歴史に残るパフォーマンスは、当時のレーカーズファンにとって、唯一誇れる出来事であった。
今季15年目を迎えるブライアントにとって、81得点を挙げた05−06シーズンは、自己最多の1試合平均35.4得点をマークした時。当時のレーカーズはブライアントがそうでもしない限り勝つことができないチームだった。
チームメートの成長 コービーの変化
ジャクソンが監督に復帰した同シーズンは、かろうじて7位シードでプレーオフに進出したが、第1ラウンドでサンズに敗れて敗退。翌シーズンも同じくプレーオフ第1ラウンドで敗退した。
その後、ブライアントはトレード志願をした。自分の力に頼るだけのチームでは優勝できないことを分かっていた。だから自らとともにチームを引っ張れる有能な選手を取ろうとしないチームにいら立ちを感じ、愛着のあるチームを出る決心をしたのだ。
だが、トレードが成立しないまま幕を開けたシーズン、信じられないことが起こった。 これまでブライアントに頼るだけだったチームメートが、オフの間に大きく向上してコートに戻ってきたのだ。
ブライアントのトレード騒動を横目に、勝ち星を重ねるレーカーズ。開幕直後には何かと話題になっていた同騒動は次第に静まり、ブライアントはチームメートと楽しそうにプレーをしていた。それどころか、すっかり逞しくなったチームメートに重要な場面でのシュートを託す姿も目立つようになった。
さらに大きな転機が訪れたのが、オールスター前。同シーズン絶好調だった若手センターのアンドリュー・バイナムが1月にひざを故障し、長期の欠場が決定的になった。そこで若返りに転身することを決意したグリズリーズからリーグ有数のビッグマン、パウ・ガソルをトレードで獲得した。これによりレーカーズは、ブライアントとガソルの強力な2枚看板ができた。瞬く間に力を増したレーカーズは、同シーズン一気にファイナルに進出。その年は優勝を逃したが、翌シーズンから2年連続で優勝。今季は3連覇に期待がかかっている。
レーカーズが2000年から3連覇を成し遂げた時のブライアントは、まだチームプレーの意味を理解できていないところがあった。チームメートよりも、自分の実力を信じる気持ちが上回っていたように思う。
だが、81得点をしたシーズンを境に自分の力で多くの試合を勝つことができたとしても、プレーオフを勝ち抜くことができないことを痛感した。そしてチームメートの力を借りて勝つことを覚えていった。
ブライアントは、“81得点から5周年”について聞かれ、「自分の中ではそれほど大したことではない。ただそういう結果になっただけだと思う」と軽く流したが、それは正直な答えだと思う。
なぜならその5年の間に、ブライアントはもっと重要なことに気付き、優勝というもっと大きな栄光を得たのだから。
<了>
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